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仏法哲学の前提としての信仰 Faith as a Prerequisite of Buddhist Philosophy
平和神学への序論 --Introduction to Pacifist Theology

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Shunbo, and Jerry.ram
春望、鼠のジェリー

Ryoka, Tooi sekai ni.ram    
寮歌、遠い世界に
Uguisu no sato.ram    
鶯の里
set 8/1/2007

Ver. 0.73 July 17, 2010

… きわめて私的な、稚拙な覚え書きが、問題提起となりうるか? …

はじめに Introduction
1章.存在と慈悲 Compassionate Entity
2章.存在の破壊的側面 悪 Destructive Entity
2-2.不信、疑惑と破壊、疑から何かを生みだすもの
Distrust, Doubt and Destruction, and Something Created from Doubt
2-3.欲望と破壊、欲望の本然的昇華としての生、文明と欲望
Desire and Destruction, Life as a Natural Sublimation of Desire, Desire and Civilization
2-4.分断から結合へ。実践的課題として、エゴをどう昇華するか?(和歌・俳句集)
From Separation toward Reconciliation, How to Sublimate Egoism as a Practical Task? (Collections of Private Japanese Poems and Haiku)
3章.生老病死、四苦、八苦と信仰
Sufferings of Living, Aging, Disease, and Death, Four Sufferings, Eight Sufferings and Faith
4章.無常と常住、我と法
Mortality and Immortality, Self and Law.
4-2.小我、大我、真我と法
Smaller Self, Larger Self, True Self, and Law
5章.方便現涅槃と本有の生死-- 真の死生観の確立のために
Present Death as Expedient Means, True View of Life and Death
6章.永遠と瞬間
Eternity and Moment
6-2.無始、無終と久遠元初
Without Beginning, Without Ending, and Eternal Beginning
6-3.久遠即末法
Oneness of Eternity and Latter Day of the Law
7章.従因至果、従果向因と因果一念の宗
From Cause to Effect, from Effect to Cause, and Cause and Effect in One Moment of Life
8章.民主の時代と、自律、友情の源泉としての信仰
Age of Democracy, and Faith as an Origin of Autonomy and Friendship
9章.使命と願兼於業(法師品第十)
宿業論の差別観の発展的解消のために
Mission and Gan-ken-O-Go (Great Desire Involves Karma)
Willingly Relinquish the Purified Karma to Save the People
----Teacher of the Law Chapter of Lotus Sutra
To Resolve Discriminative View of Karma Theory
9-2.使命、身口意の三業、そして行動主義
Mission, Physical, Verbal, and Spiritual Karma, and Activism
10章.人格(人道)価値の創造について 創価思想の根源的問いかけとは?
Humanitarian Value Creation
-- What is Fundamental Question of Value Creation Philosophy?
10-2.あくまでも、人格(人道)価値創造に主眼があること。言わば、信仰を人生哲学として行動の根底におく路線は、価値論で明確になっている。
Faith as Life Philosophy is Foundation of Actions
10-3.宗教革命、人間革命、社会革命という図式の基礎--創価教育
Humanitarian Value Creation Pedagogy -- Basis of Religious, Human, and Social Revolution
10-4.近代知性と、信仰との対決が、氏の中で統合されつつあった、希有の試論
Rare Example of Integration of Conflict between Modern Intellect and Religious Faith
10-5.利の価値のもつ人間的側面
Humanitarian Aspect of Value of Economy
10-6.結果的に、論者の殉教が、根源的な悪との対決姿勢を証明し、後には全人類の幸福の源泉となった。
In Result, Dying a Martyr of Author Indicated Protest against Fundamental Evil and Caused Happiness of All Humanity.
10-7.利他の実践から宗教的自律、独立へ -- 価値論の舌足らずを援護したい
From Practice for Others to Religious Autonomy, and Independence
I Wish to Cover Misunderstanding of (Human) Value Creation Philosophy.
11章.人間らしさの根本に信がある。
Faith Lies in the Basis of Human Nature
信の体系としての宗教
Religion as a System of Trust
生き方の根本姿勢としての宗教 誰もが宗教を持つ
Religion as the foundation of life; Everyone Has His Religion
12章.宗教、思想は選ぶものである
Religion or Thought is What We Choose
宗教の五綱、比較宗教学の必要性
The Need of Comparative Religious Study
折伏行の正当性と、真の寛容、神学的非寛容
Shakubuku or Propagation, True Tolerance and Theological Intolerance
13章.生き方からみた五重の相対
Fifth-fold Comparison from the View Point of Daily Life
14章.種脱相対の意味するもの 釈迦仏法と日蓮仏法の決定的な相違は何か
What is the Critical Difference between Shakyamuni and Nichiren Buddhism?
15章.「教法流布の先後」の独創性、と人格(人道)創価学会の人材路線
Originality of "Sequence of Propagation of Teaching," and Able Persons Oriented Guide Line of HVCS Movement    
16章.不軽菩薩について
Bodhisattva Never Disparaging
16-2.折伏行の持つ人間の尊厳観と、非暴力
View of Human Dignity in Shakubuku Practice, and Non-Violence
16-3.ガンジー、リンカーン、ケネディーと不軽菩薩
Mahatma Gandhi, Abraham Lincoln, John F. Kennedy, and Bodhisattva Never Disparaging
17章.殉教こそ信仰者の至福(牧口常三郎先生の尊いご生涯に寄せて)
Dying a Martyr is Religionist's Happiness (on the Invaluable Life of Mr. Tsunesaburo Makiguchi)
18章.創価教育と師弟
Humanitarian Value Creation Pedagogy, and Mentor & Disciple
19章.仏教史概観
Outline of Buddhist History
19-2.日蓮本仏の信仰(開目抄)
Faith That Nichiren Daishonin is The Original Buddha (Opening the Eyes)
19-3.凡夫本仏と久遠本仏。言語化は困難を伴うが、一体のものとする信仰に立つ(文底秘沈抄、四信五品抄)
Ordinary Person is True Buddha, and Eternal Original Buddha
19-4.祈りの姿勢、と正座
Attitude and Posture of Prayer, and the Folded Knees Sitting
20章.観心の本尊、信仰の真の対境
Object of Fundamental Respect (Gohonzon)
20-2.のの字の秘密
20-3.法体論的解釈の今日までの必然性
Necessity of Interpretation Based on Contents of Law up until Now
20-4.「内在的普遍」たる衆生本有の妙理
Immanent Universality of Buddha Nature
20-5.秘妙方便と言語化、法華経
Secret Expedient Means and Verbalization, Lotus Sutra
20-6.受持即観心, 己心の本尊
Jujisokukanjin, and Gohonzon Inside of Our Flesh
20-7.寿量品の本質的な問い
Essential Question in Lifespan Chapter of Lotus Sutra
20-8.文字ご本尊実体論
Chinese Character Gohonzon has Real Entity and Function
21章.ご本尊図現に感ずる革命性--改めて種脱相対を問う
Revolution We Feel in Inscribing Gohonzon
22章.信仰即生活
Faith is Equal to Daily Life
22-2.私の信仰体験
My Experiences of Faith
22-3.リハビリテーション(医学)と、私の使命 -- 障害の医学から、人間の機能学へ
Physical Medicine and Rehabilitation, and my Mission -- From the Learning of Disability to *Functionics
22-4.農業と仏教(父の姿に学ぶ)
Agriculture and Buddhism (Learning from My Father's Life)
23章.音階の成り立ちと音楽について
Analysis of Scale and Music
23-2.音楽と信仰 「声仏事をなすこれを名付けて経となす」
Music and Faith
24章.信仰と生命論の融合
Synthesis between Faith and Philosophy of Life
25章.科学と宗教の冥合の時代
An Age of Integration between Science and Religion
26章.聖なる狂信と世界市民教育、文明論的視座
Sacred Fanaticism, Education for Global Citizenship, and View of Civilizations
26-2.等質的日本は、どこから来ているのか?
Where is Homogeneous Japan from?
26-3.権威と信仰 -- 官僚主義をいかに昇華するか?
女性の指導性と社会行動
Authoritarian and Faith -- How to Conquer Bureaucracy?
Women's Leadership and Social Actions
27章.食事姿勢と家族団らんの重要性
Importance of Posture of Feeding and Communication and Humor While Eating with Family
27-2.恋愛、結婚、離婚、同性愛、一夫一婦制 written in 1995
Love of Man and Woman, Marriage, Divorce, Gay, and Monogamy
27-3. 教育環境としての家族、共同体価値の崩壊
Destruction of Family & Community Values as an Environment of Education
27-4. 食事姿勢、一家団欒がいかに重要か ? -- 発達の視点から
Importance of Feeding Posture, and Ikka-danran -- From the View of Development
27-5.人間発達と、母の智慧
Human Development and Mother's Wisdom
27-6.父性と父の背中、智慧、予言
Paternity, Father's Back, Wisdom, Predictions
27-7.恩と人権
Obligation and Human Rights
27-8.家族、共同体、地球家族
Family, Community, Earth Family
28章.世界平和と真実の仏法、真実の宗教の連帯
World Peace and True Buddhism, Coalition of True Religions
28-2.平和教育への課題
Tasks for Peace Education
28-3.青年を主体とした平和運動、社会貢献の今後
Future of Peace Movement and Social Contribution Mainly by Youth

 はじめに   Index
 Introduction

 私たちは、世界的な平和、教育、文化運動の推進母体である人格(人道)創価学会(Soka Gakkai International => Humanitarian Value Creation Society)の一員である。しかも、その必然的な後継者として、千年紀(The Millennium)社会をも、担うべき責任・使命を持っている。 *創価 価=(価+貝)

 その自覚に立って、自らの信仰というもっとも基本的な観点の上に、種々のテーマを掘り下げてみたい。あえて、生命論的な記述を避けたかったのは、生命論も、信仰の上に位置づけられていると信ずるから。生命論も、「いのち」、「こころ」という普通の言葉で語りたい。独善的表現は、敵である。独創性は犠牲にしても、主体的表現でありたい。これは、そのプロローグにもならない私論である。

 信仰について、哲学者でもないのに書かねばならない--いやすでにそのころ書いていたが--と思い立ったのは21才。ひたすら暖めてではないが、もうその倍以上生きてきた。

 彼は、何かを悩んでいた。ひたすら情熱的に宗教活動に徹した高校時代から学問の世界へ。その過程で、何か問題意識を刺激したものがあったのだろう。「興隆期の学会では何でも通用する。今後安定期に入ったときに、このままでよいのだろうか?」こんな声も聞いた。しかし、親友にも、ほとんど真の悩みは打ち明けなかった。突然、全く信仰実践をやめてしまった。私も今やっと、彼と同じ悩みを分かち持つ。このままでは、カスが残っても大切な人材は離れ平和後継はできないからだ。

 私は、幸い彼と違って、一家で一人で始めた信仰であったし、内心の弱さという動機もあった。創価大一期同級の多くの二世信仰者と違い、私は一世である。少なくとも、一つ一つが疑問だらけであったので、考えぬ訳にはいかなかった。私なりに、秩序立てたと信ずる信仰観も持っていた。彼が何を悩むのか、わからぬなりに、自分なりに考えるところがあった。今でも、冷めた目で外部と接点を保ちながら見ていると自負している。

 そのころ、「観心の本尊抄と信仰論」(仏教大学講座講義集1)なる論文に出会ったが、問題意識は私とはかなり違うと感じていた。観心の本尊抄は生命論から始まっている。いかに納得性の理論でも、信じられなければ前提から崩れる。日蓮本仏の信仰はとばして、すぐさま本尊論に入ってしまえば、「飛躍」や、「超越的内在」などという著者ご自身の外道が混在してくる。

「不思議とは、心も及ばず、言葉も及ばず(御書p.384)」を認めると、言語化を越えたものである事は確かなのだが… 大聖人の波乱のご生涯を思い合わせる時、飛躍や超越を認めた上での空論など展開されてはいない。漢字という特徴的な表意文字を駆使し、時には平仮名を交えて、簡潔に、確信を込めて言い切っておられる。

大聖人の中では、飛躍も超越もない、「本有」の実論であった。特に、具体化、具象化としてのご本尊図現は、全存在をかけた、革命的仏法の誕生を意味したと、私は拝したい。決して、傲慢にこの問題をとらえようと思ったのではなく、友人のみせる「青春の潔い姿」の一断面に対して、私もまた必死で、彼の真の友たらんとして、そのころから、事あるごとに考え続けてきた。

これは、その友に語るためだけでなく、「平和神学への序論」として、宗教間対話のテーマを形成することもできる。多くの求道の友と、共に戦い問うていくことができるならば、友情にも、師恩にも、報いることができるかもしれない。考える契機を与えてくれた友には、心から感謝したい。彼が再起し、一つの目標を達成して高熱を出したときに、不思議に私は東京に舞い戻っていて、彼の再起をこの目で見届けた。彼を再起させたのは、現夫人である。

大阪で、人間的使命・社会的使命を追求する中で、ボロボロになっても、必死で何かを生み出さねばと思っていたときに、孤独の中で、原稿入力を始めた。私自身は、常に企画室にいる。大阪の友人諸氏、当時PCを会館へ受け入れてくださった事務長に感謝。イラクのクウェート侵攻を余所に、宗門問題は、後から追いかけてきた。あれほど平和を誓ったのに、その後NATOのユーゴ空爆は、私達にとって対岸の火事でしかなかった。東ティモールへ行っても、日本の自衛隊は、腰抜けの、後方支援しかできなかった。アグネス・チャンが、日本ユニセフ協会大使として、世界を巡っている。純粋な心の発露が、大きな社会貢献へと結実している。平和教育への貢献は、日本ではトップクラスである。

雪よりも なを美しき 足跡を

2001年1月、幸の花づなの渡辺さんに、郵送しようと雪の中を歩いて行った。自分の足跡は見えない。最初に雪の中を歩く人の足跡を、次に続く人の感動!原稿入力し始めてもう、13年以上経ってしまった。2001年2月16日、奇しくも湾岸戦争10年で、米英が、また空爆を強行。戦争は、人類の変わらざる宿命なのだろうか?平和主義者のむなしい努力は、歴史の挑戦への、応戦の歴史でしかないのだろうか?2001年9月11日以後のことは、多くを語りたくない。私達はすでに、(9/11 含む)3つの戦争を、2年半で経験した。

SGI会長、「平和のために、一人の人間でどこまでできるのか?その輝く証明のために走り続ける毎日である。」と。私も、「平和後継」以外に、私の道はない。PEACE Ashram主宰として、「創価教育」の原点を明確にしながら、次の時代の核となりうる「利他と自律・独立の信仰哲学」を、普遍的、科学的に語りたい。テーマが膨大すぎるので、私一人では、手におえる問題ではない。未完の原稿であるし、とりあえず外堀を埋める論点から公表して、友人諸賢の御批判を仰ぎたいと思う。


1章.存在と慈悲 Compassionate Entity   Index

宇宙のあらゆる存在は、本然的に慈悲の発露である。例えば、花は、なぜ美しいのだろう?人はなぜ、花を見て美しいと感じるのだろう?多くの"なぜ"以前に、美的と人間に感じさせざるをえない、存在そのものがある。花は、存在しているだけで、見る者に快を与える。花の美的存在が先なのか、人が美しいと感じられることが素晴らしいのか?美しく咲くのも慈悲、美しさを愛するのも慈悲、両者にとって慈悲ではないか。

 花に限らず、あらゆる静物、無生物、地球そのもの、太陽はもちろん、恒星間の塵にいたるまで、その存在があるからこそ、人間も生きられる。塵の粗密が、運動を伴っていた時、引力は、密の中心へ働き、恒星系の誕生に、一役を買ったと言われている。又、相対論以後の物理学では、万有引力も、宇宙の全ての質量(塵を含む)を前提にして、働くと説明される。

 ある人が生まれる時、その自我以外の、すべての存在は、その人固有の環境となってその人を支える。自我の数だけ環境もあり、それら無数の主体-客体の集まりが人類社会であり、地球なのではなかろうか? であるならば、その主体-私自身も、その客体のために、なんらかの美なり益を与えるように、成長しなければならない。

これは確かに、存在の、相互依存性の話でもある。しかし、ちょっと待っていただきたい。それ以前に、独立人格の話でもあるのだ。赤ちゃんは、自ら願って、生まれてくるというのが前提になっている話なのだ (業生でなく願生論)。発達を貫く哲学も、独立と慈愛だ。世界は、基本的に相互作用的 Interactive だから 相互依存的 Interdependent であると、私は認識する。「世の中持ちつ持たれつ」は、日本人のべったりの依存性をよく表している。ある理学療法士は、共生を Synactive Societyと表現されている。

個人主義の国では、相互依存の重要性は、よく受け入れられる。家族価値や、協働の重要性も、もちろん。日本のように、甘え・依存性が激しく、個人主義の伝統のない国では、まず独立人格教育が非常に重要である。この小論は、両者を含むものだが、読者が誰かによって、強調点は異なる。

 御書には、「境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり、而るに境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし」(p.1055)と書かれている。ここで、境とは客観世界であり、智とは、主体的智恵をいう。

生まれたての赤ちゃんは、なぜかくも、愛すべき稚拙さに満ちているのだろう?なぜ人は、愛さずにはいられないのだろう?その泣き声は、母親に、強い情緒的アピールを持っているといわれる。 確かに、誰が聞いても、守らずにはいられぬようにさせる。

その生理的未熟故に、生まれたときから、回りをも巻き込んで、生きる力を持っていると同時に、母を母たらしめていく力をも、たくまずして持っている。内に発達する力を持っている限り、赤ちゃんは伸びる。母は育てる力をつけていきながら、また子の伸びる力に従って、伸びるに任せていく。手を抜けるようになっていく。西欧でも、発達は、持っている能力が解き放たれる(unfolding)過程であると考えられている。胎児の丸まった姿勢から、一年を経て直立歩行に至る過程に象徴されるように…

 「他律から 自律をば経て 独立へ 心からなる 慈愛を込めて」 発達の本質も、赤ちゃんそのものが慈悲の存在であり、また、男女の愛が、一個の女性から、母子の分離へと結実していくことが、慈悲であるからであるように思えてならない。こうして、ことに母は、家族への無償の愛を育んでいく。

 存在の本質は、慈悲である。この小論は、このように、最も肯定的、積極的な人生の見方、信念から出発するところに、意義をもたせた。

 次に慈悲について少し掘り下げると、抜苦(苦を抜き)と与楽(楽を与える)の二面性が一つの存在となっていることが、西欧のいわゆる愛とは一線を画す。「汝の敵を愛せよ」と言っても、憎む心がある限り、偽善性がある。異教徒、あるいは異民族との、戦争すら何度も引き起こしている現実を、見つめねばならない。或いは、選民思想を引きずっているのか?

 仏法は、実践によって、憎む心をも変革していく信仰である。本質的には、憎悪の存在を認めるが、実践的に、憎悪すら、その良い面は生かしていくという、きわめて肯定的、変革的哲理といえる。

(以下は、パソコン通信時代のレスのやりとり。)
問。
> 次に慈悲について少し掘り下げると、抜苦(苦を抜き)と与楽(楽を与える)の二
>面性が一つの存在となっていることが、西欧のいわゆる愛とは一線を画す。「汝の敵
>を愛せよ」と言っても、憎むという心がある限り、偽善性がある。異教徒、あるいは
>異民族との、戦争すら何度も引き起こしている現実を、見つめねばならない。或い
>は、選民思想を引きずっているのか? 仏法は、実践によって、憎む心をも変革して
>いく信仰である。本質的には、憎悪の存在を認めるが、実践的に、憎悪すら、その良
>い面は生かしていくという、きわめて肯定的、変革的哲理といえる。

このあたり興味のあるテーマです。

 抜苦与楽 と 慈悲の実践 について。
 憎む心 と 慈悲の心 の関係ですが、憎悪を抱きながら、はたして慈悲の想
いに立てるものなのか、どうか。

 キリスト教では「愛」を説きその反動として「憎」がついてまわります。
 憎しみを抱きながら相手をはたして愛せるか、もし、それができるとしたらそ
れは明らかに偽善だろうと思います。

 ではこれはどうか!
 憎しみを抱きながら、相手に慈悲の行為をなせるか、本来慈悲は愛憎のように
裏表がありません。ですから、相手に憎しみの想いをもちながら、相手に好意的
な行為をなすならば、それは慈悲とはなり得ない。理屈から言えばそうなります。

 しかし、ここで考えなければならないことは、そうした行為を人はたやすく偽
善であると批判しがちですが、偽善的な行為をなしながら、行為が意思を変革し
ていく事があるという事実です。

 私は人を評価する場合、ある特定の一瞬の行為を評価するのではなく、どのよ
うに変化していくかというベクトルにおいて評価していくのが適当ではないかと
考えています。

 このある特定の一瞬の生命現象の評価と変化のなかに見いだせる生命現象への
評価の違いは、そのまま 慈悲 と 愛憎 との関係に置き換えることができる
のではないか、とさえ思っております。

 愛している という生命現象があります。また憎しみを感じている という生
命現象があります。これはその瞬間の生命現象であって、たとえば 一時憎しみ
を感じていたとしても、相手を憎むという行為が次の瞬間には相手への哀れみの
感情に変化しそれが相手を受容してあげようとする意思になっていく。
 これすなわち、愛。情愛とかいろいろ表現の方法はあると思います。
 そして、その変化の過程のなかにみいだされうる生命現象、なにかを見いださ
ずにはおれない感情、それじたいを慈悲と表現してみたいと思います。

 という私の考え方について、なにか感想があればおきかせいただければ幸いで
す。

 市民PATIOは公開PATIOで、ここのようにクローズドPATIOではなく、用途が違
いますから ダブルポストにならないと思います。以前、そうした議論が市民
PATIOであり、そうした意見になっておりました。みなさんからいろんな意見が
いただけるのではないかと思います。

 読んですぐに慌てて書いたのでおかしな表現があるかも知れませんが、どうぞ
お許しください。

答。
早速レスありがとうございます。

私自身の問題提起自体が抽象的すぎるので、あなたの質問は、それを少しでも具体的
にしようとして下さいました。ありがとうございます。私も、私の体験をふまえて、
実践的に語る用意はあります。

その前に、論点を、もう少し具体的、実践的、体験的にできないものでしょうか? 私
の論が抽象的にすぎるものですから、レスは、具体的にさせていただきたいと思いま
す。全く勝手で、申し訳ありません。

抽象的に考えれば考えるほど、論点ばかり増えて、最初の28項目から増えるばかり、
確かにこれも、もう一つ小項目を増やさざるを得ない、大事な、「信仰と慈悲」の観
点ですね。

実践的には、慈悲と言っても、人間革命の途上の私達自身には、キーワードは「勇
気」と言われていますが...

問。1,
>その前に、論点を、もう少し具体的、実践的、体験的にできないものでしょうか?

できなくはないと思いますが・・・・。

> 存在の本質は、慈悲である。

乳飲み子と母の関係にみられるように存在の本質が、慈悲であるならば、この人
間世界は、子が必ず母から生まれる以上、必然的に慈悲があふれんばかりになっ
ていてしかるべきなのに、どうしてそうなっていないのか?

といった問いをたてて回答していくような形で書けばいいかと思います。

答。
>偽善的な行為をなしながら、行為が意思を変革していく事があるという事実です。

もう少し付け加えれば、「偽善的と批判されかねない行為をしながら」と言うことで
しょうか? 確かに、これは事実としてあります。

私のことを、もう少し語らせていただければ、リハビリテーションの専門職として、
認識が高まる一方の、理学療法士をしています。特に、脳損傷からくる障害を、治
療、訓練するある外国の方法に執着して、勉強しています。

重度の損傷を得た患者さんを、機能的に向上させようと努力する場合、個人的な「愛
憎」など問題外とも言えます。何とかしなければと言う、職業意識の方が先に立ちま
す。毎日毎日、患者さんに、もしかしたら嫌われていることを、強要しながら、ある
いは、こちらも特定の患者さんは、好きになれないながら、機能向上を必須の課題と
して取り組むような仕事かもしれません。

時には、ある患者さんについて悩むと、仕事を離れても、悩みがついて回ります。悩
むこと自体が、仕事上の使命感の表れかもしれません。患者さんに対する憎悪の感情
など、仕事の上では、全く障害になりません。

このような日常を、何年も継続していると、明らかに、仕事が人間性を変えるように
思います。患者さんに対して、対等の関係に立つことから、憎むという感情が出てき
ますが、これはすでに初心の頃から、押さえられるようになります。援助しなければ
ならない立場で、対等の関係に立って、「愛憎」を問題にすることなど、仕事上全く
意味を持ちません。

意識して押さえると言うよりも、仕事の性質上、ありがたくも、憎む感情など出てこ
なくなります。習慣は、恐ろしいものです。感情的に、患者さんとうまくいかなかっ
たときなど、こちらの対応を、反省することしきりです。だから、患者さんから憎ま
れても、こちらから憎むことは万が一なくなります。

--
個人的な、体験を通して恐縮です。

「偽善的」と批判されかねない行動を、あえてとり得ることは、職業的使命感からく
る、勇気とも言えるかもしれません。私の行動が、慈愛あふれるものだなどとは、決
して言えませんが、患者さんに、憎まれても、機能向上という使命を果たすために
は、手段を選びません。

「愛憎」の感情は、別問題とすら思っています。確かに、「行動として」、慈愛を目
指しています。事実として、機能向上という、目標が達せれれば、満足です。

仕事を通して、菩薩業を実践できることは、私の最大の感謝と喜びです。

問。
うーむ、哲学的で、難しい文章ですね。
なんとか、コメントしようと思うのですが、正直、引いてしまってます。

>存在の本質は、慈悲である。この小論は、このように、最も肯定的、積極的
>な人生の見方、あるいは信念から出発するところに、意義をもたせた。

存在の本質は、慈悲である。
これは、仏の生命を基調として正しい見方で見れば、そう写ると思うのです
が・・・
各々の生命状態により、見えている世界は違うと思うのですが・・・・・
例えば、「赤ちゃんが泣いている」
この現象に対して、全ての人々が、慈しみの心を発するとは限りません。
幼児虐待という行為があります。

存在の本質は、慈悲であると、悟ったというのなら良いのですが、論証してい
くには、この世界は、あまりに慈悲とは正反対のものに汚染され過ぎています

本来、慈悲で満ちている宇宙に存在し融和している自己を見失ってしまってい
るところに、不幸は、始まっているのですが・・・・・

> 次に慈悲について少し掘り下げると、抜苦(苦を抜き)と与楽(楽を与え
>る)の二面性が一つの存在となっていることが、西欧のいわゆる愛とは一線
>を画す。「汝の敵を愛せよ」と言っても、憎むという心がある限り、偽善性
>がある。異教徒、あるいは異民族との、戦争すら何度も引き起こしている現
>実を、見つめねばならない。或いは、選民思想を引きずっているのか? 

「汝の敵を愛せよ」というのは、憎まずに愛しなさいという事なんだろうけれ
ど、憎しみという感情を抑圧させている以上、偽善とならざるを得ないわけで
すね。
選民思想は、引きずっているのでしょうか?
私は、そんなにひきずっているようには感じませんが・・・・・
愛憎というと、いわゆる欲望の一種のような気がします。
感覚的で、もうしわけないんですけれど、愛憎というのは自身のエゴが、その
本質には、あるような気がします。
それに対して慈悲とは、自身のエゴのおしつけでなく、相手の生命への尊重
が、その本質にあるような気がします。

神が救ってくれるという他からの介入
私が救ってやるという自己のエゴの介入

それらに対して、仏法は、本来、その人自身に内在する生命の力を気づかせよ
うとするものです。

ちょっと話をはずしてしまいましたでしょうか・・・・・

>仏法は、実践によって、憎む心をも変革して
>いく信仰である。本質的には、憎悪の存在を認めるが、実践的に、憎悪す
>ら、その良い面は生かしていくという、きわめて肯定的、変革的哲理といえ
>る。

ここのところがよくわかりませんが?
「憎む心をも変革して」とは、所詮原因とは、自身の生命にあるという考え方
の事でしょうか?
本質的には、憎悪の存在を認めるとは、どういう事でしょうか?
いわゆる、生命自体には、憎悪する心もあるが、仏という生命に照らされて、
悪を呵責する心として現れるという事でしょうか?

なんか、トンチンカンな事ばかり書いてしまって、申し訳ないです。
日頃の多忙にかまけて、あまり熟考する事がなくなってしまったもの
で・・・・・
頭が固くなって老人脳になってしまった・・・・・反省。
最近、ほとんど、活字を読んでいないし・・・・
読むのは、ジャンプ、マガジン、サンデー ・・・・・(-_-;)

答。
コメントありがとう。

「難解」に感じさせてしまっているのは、内容よりも、私の表現にありますね、確か
に。

難解な問題を、やさしく語れると、仏法対話も生きてくるのですが...あえて、難
しく語っているような所も、自分の中にありますので、ご注意。しかも、連想は飛び
に飛ぶ方ですので、先が思いやられます。

肯定的側面を、強調しすぎるほど強調するところから、スタートしています。戸田
2代会長の、「大慈悲論」には、これには似るべくもなく、展開されているようです
が、私は、読んでいません。題名だけ、なぜ知っているのか、私も不思議です。

さて、慈悲とは全く違う、否定的側面については、確かに、これ以上に、語らねば
ならぬ事が多いようです。次の第2章に、少しだけ論究しました。ご参照下さい。

|>仏法は、実践によって、憎む心をも変革して
|>いく信仰である。本質的には、憎悪の存在を認めるが、実践的に、憎悪す
|>ら、その良い面は生かしていくという、きわめて肯定的、変革的哲理といえ
|>る。
|
|ここのところがよくわかりませんが?
|「憎む心をも変革して」とは、所詮原因とは、自身の生命にあるという考え方
|の事でしょうか?

憎む心は、例えば、悪に対する憤りなど、むしろ強くするのが、仏法実践であるよう
です。ですから、憎む心を、抑える必要は、ないと思います。現れ方が、創造的にな
るように、変われればよいのでしょうか。

むろん、人間革命の途上の私達には、様々問題があるかもしれません。どうしようも
なく、人の好き嫌いは出てしまうものだし、人と心がうち解けなくて、悩むことは、
多いものでしょう。一人の人に、心を開いてもらうために、必死で祈ることがありま
せんでしたか? たとえ、失敗したとしても...

実践的に、「憎む」心をとらえた時、私達の姿勢は、前向きのことが多い。少なくと
も、理想的にはいかぬまでも、努力している会員は、多いと思います。私達の理想
が、慈悲にあるからだと、感じます。現実を、あきらめるのではなく、肯定的、実践
的、変革的にとらえます。

「負けじ魂」は、誇りです。

問。
> さて、慈悲とは全く違う、否定的側面については、確かに、これ以上に、語らねば
>ならぬ事が多いようです。次の第2章に、少しだけ論究しました。ご参照下さい。

はい、読んでみます。

>憎む心は、例えば、悪に対する憤りなど、むしろ強くするのが、仏法実践であるよう
>です。ですから、憎む心を、抑える必要は、ないと思います。現れ方が、創造的にな
>るように、変われればよいのでしょうか。

これに関しては、難しいです。
創価新報や、聖教新聞の寸鉄などの記事を読んで、私は良い印象を受けません。
どちらかというと不快感があります。

なぜ、あそこまで、しつこく言わなければならないかは、御書にそった行動であるので
間違いはないのですが・・・・・
まだ、私は、その理由が理解できていないのが実際のところです。

ただ、気になる事といえば、善と悪を明確にする必要があるからの行動であり、怨念め
いた感情を持てば、どういうことになるか、私は良い結果を想像できません。
日顕という人も、また不幸な人であることには変わりはないはずです。
難しいです、単純に「極悪日顕」と叫んでいるだけでは、矛盾が生まれてきてしまうよ
うで・・・・・

>むろん、人間革命の途上の私達には、様々問題があるかもしれません。どうしようも
>なく、人の好き嫌いは出てしまうものだし、人と心がうち解けなくて、悩むことは、
>多いものでしょう。一人の人に、心を開いてもらうために、必死で祈ることがありま
>せんでしたか? たとえ、失敗したとしても...

人の好き嫌いというより、人によって様々な考え方や生き方があるわけで、自分と同じ
ものを相手に見れば、好ましく感じるであろうし、異質なものには疎ましく感じるでし
ょうし、そういう意味で相手を完全理解するという事は、無理だと私は思っています。
ただ、理解できなくても、認めてあげることはできると思います。
また、理解していこうという努力はできると思っています。
自分のわずか数十年の経験と知識という色メガネで、相手を見てはならないと思ってい
ます。

そして、相手が心をうち解けてくれるかどうかは、理解ではなく、信頼だと思っていま
す。
自分の事を認めてくれて、自分を理解しようと誠実に、どこまでも誠実に忍耐強く行動
する姿。
そこから、あの人なら信頼できると、信頼が生まれた時、序々に心がうち解けていくの
ではないでしようか。

私は自分の事を全て理解してくれる存在なんて、御本尊以外にないと思っています。
同じ境涯で、同じ様な苦しみを経験していなければ、なかなか相手の苦しみや悩みは理
解できません。
学会にも信頼する先輩はいますが、自分自身の事を本当に理解してくれている先輩はい
ません。
でも、私を心配してくれている先輩はたくさんいます。

そして、同苦し、共戦していくことはできると思います。
私は信心とは、
「私もいかなる逆境にも負けない、だから君もどんなに辛くても断じて負けるな、辛く
なったら、思い出して欲しい、一人では無いということを。」

決して、相手を救ってあげるとかいう考え方では無いと思います。
自分自身も満身創痍になりながら、友と共に道を開いて行くことだと思っています。



2章.存在の破壊的側面 悪   Index
Destructive Entity-- Evil

 しかし、存在には、どうしようもなく破壊的な部分も存在する。あれほど愛らしかった赤ちゃんも、成長するに従い、憎らしさもでてくる。破壊的な本質を、建設的な方向へ、教育していくのは、幼時の躾の力が大きく、又、親子の愛情の結びつきによってのみ可能となる。

 「魔は、法身の慧命を破す」と記されているが、犯罪者の存在、戦争の残虐性を思う時、悪魔的な破壊的側面もまた、存在の真実である。自分も他人も愛すると同時に、何かの原因で破壊的衝動がでてくる。それは、いかなる善性をも破壊しつくさねばおさまらぬ、エゴイズムEgotismあるいは イドイズム *Idoism かも知れない。

40代以後、人間は保守化、小市民化していく。「衣食足りて、礼節を知る」はずが、子供達が手を離れていくと、現状に満足していくものらしい。エゴイズムは、強力な他者意識がないところでは、容易にイドに負ける。本能は、原始的であればこそ、強力でもあり、今まで教育の力で押さえられてきたものが、突如吹き出すことにもなる。権力者がいとも簡単に、賄賂や誘惑に負け、一つの嘘がいくつもの嘘を重ねるようになれば、幼児性すら克服できるものではあるまい。日本文化の、イドイズムは、拝金の文化侵略と結び、世界へ輸出し始めているから、要注意だ。至るところで儲け主義に堕し、日本化が心配される。悪を輸出し、悪人がグローバルに連帯し出したら、善人はまとまりようがない。

 しかし、「魔及び魔民たりといえども仏法を衛護す。」とも記されているように、このような、存在の破壊的側面も、より大きな精神的変革の中では、肯定的使命を発揮する。

大聖人のご生涯の中でこのことを論証しようとして、平の左衛門の尉の存在を借りてみよう。彼は徹底的に大聖人を迫害したが、それがご本仏の証明となり、大聖人の思いの中には、感謝されている記述もしばしば見られることは、驚くべきことである。御書には、きわめて厳しい挑戦の日々と、実践の裏付けがある。疑惑や、曲解のただなかにも、不動の自己を維持できるか?身読には、大感情が伴う。

釈尊は、提婆達多という最大の迫害者の過去に、自分の師を見いだし、大聖人は仏弟子の予言書を証明できるからと、迫害者こそ最大に感謝される。「目には目を、歯には歯を」ではない。いったい宗教者の心根とは、どうしてかくも常識はずれに至純なのか?どうしたらこうした心になれるのか?毎日毎日の、執念にも似た救済行動が、こうした心をはぐくむに違いない。一日、二日ではなく、修業時代から、実際の仕事に至るまで、他を思いやる気持ちが、こうまで持続できるものだろうか?

悪と言えば、もう少し、考察の必要がある。

第一に、生命論で言えば、十界論で、三悪道・四悪趣と、四聖の区別がある。三悪道は、地獄界、餓鬼界、畜生界。四悪趣は、それに、修羅界を加える。さしずめ、エゴ・イドに満ちた、最低の生命状態といえる。四聖は、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界。日常性から脱却して、常に向上を目指す、スーパーエゴといえるか?

この小論は、生命論に深入りするものではないが、せめて、十界については、あえて常識として、引用させていただきたい。

つまり、日常性に埋没し、自分自身の悩みに拘泥する限り、むしろ悪の存在であるという、厳しい仏法の指摘がある。一時的には、天界という、個人的な喜びを享受できたとしても、又、四悪趣に舞い戻り、最終的には、自身不幸を味わうという、それが、悪の本質である。

第二に、初代牧口会長の価値論は、美・利・善の価値、醜・害・悪の反価値と人間の行動、そして大善生活と信仰の必要を論じられている。カントの真善美をふまえた上で、真理を価値から外し、利害を価値に取り入れられた。それよりも、価値と信仰を結びつけられたところに、偉大さを感じる。つまり信仰の、社会的意義、人道的意義を、困難な状況の中で、すでに論じておられた。しかも、宗教的価値「聖」などは、否定しておられる。生活や、社会を離れて、信仰は存在しない。

在家団体としての宗教団体=創価学会に、疑義を差し挟む人もみえるかもしれないが、このように、オリジナルの哲学とは別に、宗教の持つ、社会的意義に最初から着目されていたのが、我々の創立者である。職業的宗教者でなく、社会人が、その集まりである会員の行動を、哲学をもとに組織・再組織するという、きわめてまれな例がここにある。社会貢献、社会的使命の根底に、日々の精神闘争をおいている。

従って、「悪」とは、価値論では、他の人に、醜や害を与えることを言う。このような、近代知性の結晶が、宗教と結びついているのが、私達の信仰である。

(以下は、パソコン通信時代のレスのやりとり。)
問。
>しかし、存在には、どうしようもなく破壊的な部分も存在することは、否定できな
>い。あれほど愛らしかった赤ちゃんも、成長するに従い、憎らしさもでてくる。破壊
>的な本質を、建設的な方向へ、教育していくのは、幼時の躾の力が大きく、又、親子
>の愛情の結びつきによってのみ可能となる。

結論が唐突にでてきているような気がします。
たぶん、テーマを掘り下げれば、それだけで一冊の本になってしまうからでしょ
うが・・・・・
性善説と性悪説、この二論と、仏法で説くところの生命論、その相違点等を論じて行か
なくてはならないでしょうし・・・大変だわ。
また、染浄の二法、及び九識について・・・・・生命論バリバリの話になってしまふ。
頭がオーバーヒートしてきた・・・・・

しばし、休憩。
昔、「伝説巨神イデオン」なるアニメがあった。
赤ちゃんの生命に一番共振して、無敵になるロボット。
たしか「イデ」だったかな・・・・あれって「イデア」の「イデ」なんだろーか?
しかし、「無限の力」って凄かった・・・・・惑星を一刀両断するし、最後は宇宙の
創世、ビッグバン?なんて終わり方だったし・・・・
たぶん、アニメ史上、最強のロボットだろう、うん。
ちなみに合体ロボなんだな、これが・・・・・
そうそう、当時としてはエグかった。
全員、無惨な死、女の子の首が飛んでたし・・・・・

首といえば・・・・「エヴァ」も・・・・
「エヴァ」・・・・うーーむ、末法を痛感するエグさだったなぁ・・・・。
宗教色バリバリだし、「人類補完計画」・・・・・・
休憩終わり

破壊的な存在・・・・・
「此の世界は第六天の魔王の所領なり。一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属なり」
1081
末法の衆生は、未だ善を知らず、ゆえに無始已来彼の魔王の眷属なんですよね。
昔、先輩から聞きました。
大聖人が、御本尊を顕わしたから、十界の生命なんだと言える。
もし、大聖人が御本尊を顕わさなかったら、大聖人があらわれなかったら・・・
九界の生命なんだ。
大聖人の仏法を教えていかなければ、この世界の衆生は永久に魔王の眷属で仏界
なぞ、無いに等しいことになるだろう。

生命には、魔の生命もあるし、仏の生命もある。
「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」
997
元品の無明に支配されてしまえば魔王の眷属となっしまう。

> しかし、「魔及び魔民たりといえども仏法を衛護す。」とも記されているように、
>このような、存在の破壊的側面も、より大きな精神的変革の中では、肯定的使命を発
>揮する。

三類の強敵が、なぜ法華経の行者に必要であるのか?
また、なぜ、成仏という境涯を得る為には三類の強敵と戦わなくてはならないか?

極悪と戦う事により極善である仏界の生命が胸中に昇るわけで、強い難と戦わない
限り、自身の胸中に赫々たる仏界の生命を見ることはできない。
仏界の生命を見ることが無ければ、自身の生命の内に仏界の生命があることを知る
ことはない。

ゆえにこの信心は難をもって安楽と心得る。
そのゆえは、信心とは、難を避けるものではなく、難を呼び起こし、自身の生命に
仏界の生命を立ち上らせ、全ての難を安楽へと換えゆく事で、自身の胸中に仏を見
るためのものであるから。

そのように魔を見破る時、魔もまた、成仏への因となる。

と、このように私は認識しています。

> つまり、日常性に埋没し、自分自身の悩みに拘泥する限り、むしろ悪の存在である
>という、厳しい仏法の指摘がある。一時的には、天界という、個人的な喜びを享受で
>きたとしても、又、四悪趣に舞い戻り、最終的には、自身不幸を味わうという、それ
>が、悪の本質である。

めちゃめちゃ厳しいですね。
そーいう事、御書とかにもあるんですか?
自身の悩みを悩んでいたら悪だなんて、仏以外は悪だって言っているみたい。
二乗(声聞、縁覚)が、成仏できないと釈尊から言われた時なみのショックで
しょうか・・・・・

> 第二に、初代牧口会長の価値論は、美・利・善の価値、醜・害・悪の反価値と人間
>の行動、そして大善生活と信仰の必要を論じている。真理を価値から外し、利害を価
>値に取り入れたことよりも、価値と信仰を結びつけたところに、偉大さを感じる。つ
>まり信仰の、社会的意義、人道的意義を、困難な状況の中で、すでに論じておられ
>た。しかも、宗教的価値「聖」などには、決して、論究されていない。生活や、社会
>を離れて、信仰は存在しない。

牧口先生の価値論・・・・・
読まないといけないなぁ・・・・と思いつつ、難しそうなのと時間が無いのと
で未だ、読めていません。

(価値論など、牧口常三郎の著作は、第三文明社刊全集を参照のこと。創価教育学大系
価値論の部「人格価値創造」の章など、戸田氏によって改訂されて翻訳、海外に紹介されているが、
将来を考えてのことであろうか?)


答。
5.23から5.30まで、理学療法士の国際学会に、横浜、広島に行って、レス遅れまし
た。英語漬けの毎日と、自分の無知をいやと言うほど知らされて、いくらか混乱気味
です。

さて、蘭夢さんのご意見に、おおむね賛成です。

六道輪廻を、「日常性への埋没」と表現しておられるのは、「生命を語る」上巻
だったと思います。ご参照下さい。三悪道、四悪趣を悪と言ったまでで、勤行をして
真剣に祈っている限り、刹那成道で、一瞬でも、仏界が出ているわけですから、四聖
に向かう命が出ていると思います。ここでは、犯罪者などの命を想定しています。

ただし、最初にも書いたとおり、この小論は、生命論には、深入りしません。難し
い理論を仏法対話で用いると、誤解を招きやすいからです。地獄、極楽、餓鬼、畜生
と、友人同士が話しているのを聞いたことが、本当にあるのです。友人に話す場合
は、冗談すら、気をつけねばなりません。

十界についても話す必要はないかもしれないとして、四悪趣、六道輪廻と四聖につ
いて考察しました。その用語も、現代的に語った方が分かりやすい。

最初に書いたとおり、「仏法哲学の前提としての信仰について」書いています。仏
法対話の、導入に使っていただければ、これ以上の幸せはありません。生命論の本質
的な部分を、信仰の観点から深く考えたいと思っています。

二乗について。声聞の十大弟子といわれるとおり、実際に釈尊と共に布教に貢献し
たのは、彼らでしょう。私達の生命の中にある二乗根性は、先輩のご指摘の通り、自
分だけ悟りを得ようとするもので、厳しく言われても、甘んじなければと思います。

しかし、学問等の重要性を考えるとき、四聖の中での、声聞(学ぼうとする命)
や、縁覚(芸術家のような、創造的命)は、違った意味を持つのではないでしょうか?

信仰は、人間性を変えるためにするものです。例えば、金銭的に苦労することは、
かえって功徳ではないでしょうか? 貧しさは、心の豊かさを育みます。アメリカで、
最も尊敬されているリンカーン大統領は、は、貧しさをバネにして、そこから立ち上
がりました。

これらのことは、又、後に考察したいと思います。信仰と、生命論の統合として、
一項目もうけました。

2-2.不信、疑惑と破壊、疑から何かを生みだすもの   Index
Distrust, Doubt and Destruction, and Something Created from Doubt

 小論の書き出しでは、存在の肯定的側面を強調したかったが、破壊的側面に、多くの考察をせねばならぬのは、人生が闘争の異名である証拠か? この闘争は、破壊から慈悲へ、分断から統合へ向かうものである。

 不信が、破壊的側面と結びつくの事は多い。否、戦争などの原因の多くは、相手に対する不信と、コミュニケーションのなさであろう。しかし、疑惑は、破壊的側面を持つだけだろうか?「疑う」ことにも、肯定的側面があるのではなかろうか?これが、この項の主題である。「疑う」事を、「不信」とは区別して扱っている。

 人間の、特徴的な身体機能をあげると、1)直立歩行、2)手による道具の使用、3)言葉を話す事を、3大としてあげる人が多い。しかし、言葉や、手による書字は、心理機能とも連関している。では、心理的特徴は? 以下が、私の考えである。

1)信ずる事、そして、意思を伝えあう事。ここで、信じあえる言葉でなかったならば、会話そのものが、だんだん成り立たなくなってしまう事は、言うまでもない。言葉が信じあえるが故に、相互の信頼が生まれる。母子の連結の中に、その原型を見るのは、考察として当然。

 2)疑う事。自分で考える事によって、知識や知恵を蓄積する事。過保護な生活環境や、知的環境からは、偉大な独創性は、育ちにくい例はいくらでもある。何かのハンディや、困難の中では、全てを疑い、自分で煩悶して、幸福への知恵を、蓄積する以外にない。プラトン、デカルト、皆そうではなかったか?

ホモ・サピエンスと言うごとく、考える人間は、疑う心から出発しているかも知れないし、科学性の芽生えも、この中にこそあるだろう。

 母を盲信するばかりかと思われる赤ちゃんにも、生まれたときすでに、満腹になったら飲むのをやめ、反射的に何でも握りしめる手が、しばらくすると、いやなものは避けるようになる。この、「いやなものは避けること」が、疑いの初めかも知れないし、本能的ではあるが、自らの判断によってという意味では、独立への第一歩でもある。

 刺激を、無批判にでなく、主体的に判断して取り入れていく事は、独立への初めである。知識の吸収の中でも、疑い、考えに考えて記憶したものは、記銘性も強い。書く、読むは、話す、聞くの延長にあり、古来、最深奥の知識の蓄積は、口伝えになされた。そして、書きとどめられたものは、真に古典の名を、高からしめた。

 3)人間の尊厳を傷つける、いかなるものとも戦う心。
 その判断を形成してきたものは、信じ、疑う中で培われた主体性であった。突然、3)をあげる事は、驚かれるかもしれない。いわゆる悪とは戦う心が、心理機能にとって必須であると考えるのは、古典の中に、人間の尊厳を傷つけるものは少ない事実である。現在の、大量情報化時代の中から、次世紀に生き残るのは、良質のもののみであろうし、後には、ゴミのような情報が残るであろう。

 さて、単独で、2)を問題にしているのでなく、3)のような、高邁な心の主体性をもって、1)2)を往復する中で生まれてくるものが、創造性ではなかろうか? 創造には、困難と、孤立が不可欠である。

 つんぼに絶望し、親類に問題児を抱え、社交界からは、相手にされないように振る舞ったかも知れず、結婚できなかったベートーベン。彼の音楽が、強く、勇気ある美を保っているのは、境遇のせいばかりでなく、彼なりの、計算し尽くされた、芸術至上主義がある。弱いかもしれぬ美しさを疑い、否定しては、改訂を繰り返した。

 自分の音楽についても、常に発展させたかったのが、彼の真骨頂だと思われる。第9交響曲の冒頭、123楽章のテーマを次々に否定していくくだりは、真に劇的といってよい。拍手と共に現れる歓喜のテーマは、ミミファソソファミレドドレミミーレレー、とドレミファソだけの、ほとんど音階に近い単純なものだ。ただ一音現れるオクターブ下のソと、続くシンコペーションが、彼らしい。

第5番では、タタタターン(ウン) タタタターーンと、全編を貫くリズムテーマであった障害のテーマが、ここではただ一音(ソ)に続いてシンコペーションで跳ね返すだけの軽さとなって、歓喜の歌に統合されている。

 創造は、困難の中で、孤独と、疑いをバネにしてなされる。安易な信からは、現状を変革し得るものは、真には生まれ得ない。最極の権威とも、真正面から対決し得る勇気なくして、叶わぬものである。

 以上のように、疑いは、直接、破壊的側面へと現れるだけではない。何を信じ、何を疑うかの、緊張感ある選択の中から、存在の肯定的側面が、再び顔を出す。しかし、それは、全存在をかけて生きる、強さなくして叶わぬものであり、このような緊張感ある自我を築くためにこそ、情緒を伴った深い思索と、精神性への畏敬が、必須である。

 最後に、不信と、破壊について、言葉を整理しつつ、論及しなければならない。「疑う」事とは区別して、「不信」を扱う。

 1)に述べたように、コミュニケーションは、相手の言葉に対する信によって成り立つ。内心での疑いはともかく、相手の言葉のように行動すれば、それは不信ではなく、信と同じ結果をもたらす。行躰即信と言われるゆえんである。微妙な信疑の動揺や思索は、人間の常である。相手の言葉の通り行動しないのは、不信といえる。

 法に従った言葉に対して、不信の行をなすのは、破壊の結果は明かである。交通法規、国法に対し、従わぬ者があろうか?いわんや、宗教は、人生の法である。

 戦争や、紛争の原因も、信無き言論や、不信感のたまものではないだろうか? 時には、自らの言葉を裏切るような行動をする人の、なんと多い事か? 大切な、言行一致。

 不信は、やはり、破壊へと向かう。内心の大疑は、大悟に通ずる。

 信仰は、盲信では決してありえず、疑っても疑っても、疑いきれない何物かを信ずるという意味で、科学性の極にあるとも言えるし、悩める者のため息では、決してない。信仰によって、かえって、より深い生き方を要求されるのは、誰もが実感している。信を強調しているのではない。信と疑を往復させる、強い主体性が、人生にとって不可欠であり、そのために信仰が有効である。

(以下は、パソコン通信時代のレスのやりとり。)
問。
人間の心理的特徴として

1信じる事
2疑う事
3人間の尊厳を傷つける、いかなるものとも戦う心

を上げられていますが・・・・・
おもしろいとは思いますが、ちょっと無理している気もします。

別に人間でなくても信じたり疑ったりは、すると思うのですが・・・・・

動物の世界でも信頼関係があると思いますし。
組織的行動をとる動物なんかは、信頼関係無しでは無理ですから。

人間だけのものと言えば、宗教があります。
動物には宗教はありません。
つまり、祈るという行為なり心理が動物には無くて人間にはあるものと思
います。

3人間の尊厳を傷つける、いかなるものとも戦う心

これは、仏界の生命そのものですね。
この心が前面にでている人が仏、迷ってでてこない人が凡夫。
そして逆の心の人が魔。

>戦争や、紛争の原因も、信無き言論や、不信感のたまものではないだろう
か?

人間の尊さを信じることのできない、人間軽視の国家重視、イデオロギー
重視、そんなものが原因なのかも。

>信を強調しているのではない。信と疑を往復させる、強い主体性が、人生
>にとって不可欠であり、そのために信仰が有効である。

この結論への流れが今ひとつわかりません。
「信と疑を往復させる、強い主体性」が大切という事は、「信と疑を往復」
することが大切という意味?
なんで、ここで人生にとって不可欠という結論にいたるのか?
今ひとつわからない。
信仰なら何でも有効なのか?
お金を信じる拝金主義?
科学万能信仰?
固有名詞として「大聖人の仏法」なり「創価学会の思想」なりを入れた方が
良いと思います。
そうしないと、一般の言葉として「信仰」をとらえるので話が見えなくなり
ます。

だいたい、おっしゃりたいことは、わかりますが、あえて、突っ込んでます。

答。
自分の文章を引用するのは気が引けますが、

>信仰によって、かえって、より深い生き方を要求されるのは、学会の誰もが実感
>している。

とのみ、書いています。

日本人は、本当に信仰心をなくしていますが、まずは真の意味での信仰心の大切さ
を問いたいと思っています。創価学会等の固有名詞が出てくるためには、比較宗教学
が必要で、ここではそこまでは必要ないと思っています。後の論に譲ります。

蘭夢さんは、この論についていけないようですね。いろいろの考えがありますか
ら、私の論を、押しつけるつもりはありません。又、私の論も、試論的なものですか
ら、無理があるのも当然かと思います。

ただ、ここで言いたかったのは、信仰すると、従順にならなくてはいけないか? と
言う問いへの、一つの回答です。大聖人の仏法は、きわめて「信」を要求されます
が、歴代会長の優れているところは、私達に、あるいは国境を越えても、納得できる
言葉で、仏法を語っておられる所ではないでしょうか?

もちろん、信ずるに足る言葉は大切。自分で疑うことも、科学的に宗教を判断する
ことも、大切。では何を基準に、信じたり、疑ったりするの? となれば、自分の主体
性以外にない。その主体性でも、悪のそれではなく、善の主体性を鍛えるのにどうす
るか? と言うところで、信仰の必要性を説いたつもりです。

疑うことの、肯定的意味を含めて、「信」と、「疑」を考える。と言ったところ
が、要旨です。

問。
とても難しくて私にはコメントがつけられません。(^^ヾ
はい、そのとおりですね、と読んでしまうか、一つ一つを吟味しすぎて全然進
まないかのいずれになってしまって。

もちろん、全体としては肯定的に読ませていただいていますが、どうも固い論
調には腰が引けてしまいます。これは私の未熟さゆえですのでお許しを。

答。
レスありがとうございます。

婦人部の方の、レスをいただくだけで、感謝です。舞台裏を明かしますと...

「はじめに」に書いたとおり、親友が、勤行も活動も、一切しなくなっていました。
学生部に入って、およそ1年経ったときです。何かを必死で考え、勉強しているのは
分かるのですが、何かが分かりません。

泊まりに行くと、書棚には、私と違って、法律関係の専門書や、牧口常三郎全集、
戸田城聖全集もあります。私から、「何が悩みだ?」とは、聞けないものがありまし
た。クラスの友人が山で遭難し、皆で捜索するという事件もありましたが、その時で
も、いっしょに勤行すらしません。まじめな彼が、そうまでこだわっているのは、尋
常のことではありません。

日記らしきものを盗み読むと、主には、御本尊のこと、あるいは、隆盛期の創価学
会ではなく、今後、安定期に入って以後の学会を考えているようでした。

そのころ読んだむづかしい論文も、「はじめに」に書きました。親友が真剣である
だけ、私も真剣に自分の考えを組織立てようとしなければなりませんでした。しか
し、未熟な考えをやりとりするまでもなく、数年後、ある時期から、又勤行も始めま
した。

彼自身の中でも、私自身も、孤独な作業だったようです。友人の件は落着したので
すが、つたない思索の集積を、原稿にしようと思い立って旧のパソコンに、向かい始
めました。9年近く経っていますが、いっこうに進まないのは、責任は私にありま
す。

エネルギーになっているのは、仏教大学講座のその論文と、もう一つ、松戸行雄氏
の本があります。(注) ドイツ教学部長、東洋哲学研究所ヨーロッパ研究員)どうし
ても、納得いかないものが、その二つにあるため、こうなっては、引き下がれませ
ん。

原稿入力が孤独な作業であること、いろいろなものを詰め込みすぎようと無理して
いること、必須な論点のみメモ的に書いているだけかもしれないこと。難しくなる原
因は、分かっています。肩を張りすぎています。今が2章目ですが、これが28ありま
す。

こりずに、おつきあい下さいませ。

問。
こんにちは(^^)/~

感想の第2弾です(^^;)
 今回もなかなかの力作だと思います。
 ちょっと論旨について私なりにまとめてみますね。

 この世において信ずるに足りるものがあるということは、そこに秩序と安定が
あるということであり、平和で創造的で価値的な営みが行われるということでも
ある。
 それ故に不信の充満した破壊的衝動に突き動かされ易い社会にあっては、信ず
るに足りうるものを自ら得て行こうとする主体性をもった人物の輩出こそがとり
わけ重要になってくる。
 世の中には信ずるに足りぬものが多くあるのではない、信ずるものを見いだし
ていく主体性を持った人が足らぬ結果、信ずるに足りるものが、なかなか見いだ
されないのである。
 では信ずるものを見いだし得ぬ人々に共通するものはなにか? それはコミュ
ニケーションをはじめとして積極的に相手に関わりを持ち、自ら相手を理解して
行こうとするパワーの欠如にあるのではないか。

 パワーが欠如する原因はなにか? その原因をもとめれば大要3つほど見いだ
すことができるだろう。
1)2)3)(略)

 故に信とは本来、自らが勝ち取っていくものであり、安易な姿勢では決して信
ずるに足りるものは得られないのである。
 同様に信仰に於ける信も自らが求めて試行錯誤を繰り返す中で本物の揺るぎな
い信を胸中に確立していくものであると思うものである。

 というような主旨の御発言なのではないかなぁと思いました。

 で、面白いなぁとおもったのは以下のところです。

> 不信は、やはり、破壊へと向かう。内心の大疑は、大悟に通ずる。


 このあたりもう少し説明していただけないでしょうか?

> 信仰は、盲信では決してありえず、疑っても疑っても、疑いきれない何物かを信ず
>るという意味で、科学性の極にあるとも言えるし、悩める者のため息では、決してな
>い。信仰によって、かえって、より深い生き方を要求されるのは、学会の誰もが実感
>している。信を強調しているのではない。信と疑を往復させる、強い主体性が、人生
>にとって不可欠であり、そのために信仰が有効である。

「盲信」は他力本願ということですね。
主体的信を要求するのは自力本願ですね。でも学会の場合は自力でも他力でもな
い中道なんですよね。この中道というものが学会員にも理解する人が少ないわけ
で。(笑)

 実のところ、理論としてはなんとなく理解はしているつもりですけど、実際の
ところは 難しくてまったくよくわかりません。(^^;)

問。
こんにちは(^^)/~

どうもご無沙汰しております。
 論文楽しく読ませていただいております。力の入ったなにかを生み出していこ
うという意欲に溢れたみずみずしさに毎度感服しております。前回議論を途中で
ストップしたのは、すこし様子をみて、何をどのように進めて行かれたいのか、
それを見極めたかったということがあります。

 1存在と慈悲 から2存在の破壊的側面への一考察 悪 まで通しで読んでみ
ました。

 それでちょっと論点が1と2では異なったものになってしまっているように感
じたのでちょと確認させていただければと思います。

 プリントアウトして赤鉛筆で朱線を入れながら読んでいくとおおよその流れが
読みとれます。
 なにが異なってしまっているかというと、

 1の「存在と慈悲」のまとめとして冒頭に、#2199 

 「宇宙のあらゆる存在は、本然的に慈悲の発露である」 とありました。

これは「本然的な慈悲の発露そのものの働き」がすなわち「存在」なのであると
言われているのだと受け止めていました。

 ところが2にいくとテーマは「存在の破壊的側面への考察」となって論が展開
されていきます。
 存在が1で語られたテーマを引きずっているものであるならば、2は
「存在としての慈悲における破壊的側面への考察」
 とならなければつじつまが合いません。

 その理由を説明します。

 ご存じのように仏法では、成住壊空 と言って、破壊それ自体も慈悲の働きで
あるといわれていますよね。
 ですので、存在が慈悲であると定義するならば、その働きとして説明する場合、
1においては創造的、あらゆるものを産み育てていくべき本然の働きが慈悲であ
るという側面の説明をされたことになりますから、もう一方の側面である「破壊
を経て次の活動への充実期間である空に至る」を説明してはじめて完結すること
になると思うからです。

 死んでもういっぺん綺麗な身体になって生まれてくる という生命の洗浄作用
が慈悲の本然の働きとしてあるということですね。

 つまり我々が嫌うところの破壊作用が、本然的な働きとして存在し、それは我
々の意思でないところから働いてくるもので、この働きに対していかに人生に取
り込んで有意義なものにしていくか、が問題とされるところのものになるのでは
ないか、と考えたりします。
 慈悲を土台にして考えるならば、本然的な常住壊空の4つの側面をまんべんな
く把握しながら考えていきたいな、と思います。

 ですからこの破壊作用が私たちの心の働きとして表れて苦しみをあたえると言
うのとはちょっと別に考えた方がいいかな、と思います。どう考えるかというと、
本然的に存在する働きが出ては行けないときに表れて私たちを苦しめることがあ
るが、それはいかにして回避あるいは乗りこえていけばいいだろうか? という
ように展開して行く方が、すっきりしてるかもしれないですね。

 #2199に
>仏法は、実践によって、憎む心をも変革していく信仰である。本質的には、
>憎悪の存在を認めるが、実践的に、憎悪すら、その良い面は生かしていく
>という、きわめて肯定的、変革的哲理といえる。

 つまりこれですね。

 しかし、この箇所は文脈から言って、そうした説明に用いられているのではな
く、慈悲がある種特定の目的を持って力が働いている、つまりベクトルをもつ力
の働き(つまり産みだし育てていく)ことが慈悲であると捉えておられると、思
われる部分の説明となっています。
 つまり慈悲とは創造的なものであるという結論ですね。それを受けて

 その延長線上に展開される論が、2に於ける「存在の破壊的側面への考察」と
なっているわけですね、
 これを考え合わせると、存在とは慈悲と破壊の2側面をもつものであるという
結論になり、つまり2元論になります。これを2元論として展開していくと仏法
独自の思考方法であるところの不二というものが論理的に導き出せなくなるよう
に思うのですが、いかがでしょうか。

 「存在としての慈悲における生産的側面への考察」
 「存在としての慈悲における破壊的側面への考察」
 「存在としての慈悲における生産と破壊の結合を「不二」として考察す」

 であれば、私も素直になっとくできるかな、と思いました。

 つまり慈悲が存在を説明するなかで部分観となって説明されているわけですね。
 ですから、なんだか説明が奇妙な論理展開になってしまっているのではないか
な、とちょとt思いました。

 仏法では宇宙は慈悲の当体であると説かれてますから、一切の諸現象は慈悲の
範疇を超えない、これは存在が慈悲の領域を決して超えることがないということ
です。
 ですから私たちの日常生活というのは、それが怠惰な暮らしであれ、創造的な
くらしであれ、これ全てが慈悲の働きの上になり立っていると考えなくてはなら
ないわけです。
 そうであってこそ生命の尊厳という意義も見いだされるのではないかと考えま
す。

 このようにみていくのが真理にいたる道だとすれば、これとはまったく違うも
のとしてあるのが価値に至る道ですよね。

 私は文章を拝見して思うのは真理と価値をいかにして結合しようかと格闘され
ているのかな、と感じることがありました。

 真理はあるがまま、慈悲ならばこれを無作ととかれていますよね。ですから慈
悲は人生の目的にはならないように思います。人生の目的、少なくとも私の場合
は、慈悲で満たされた世界の中で、いかにして価値を創造していくか、というも
のではないかと考えています。
 つまり我々が価値を創造していけることそれ自体も慈悲の働きではあるけれど、
それは働きであって、それ自体が目的にとって変わることはないということです
ね。価値は見いだしていくものだと思います。参考に引用しておきます。

#2199
>  存在の本質は、慈悲である。この小論は、このように、最も肯定的、積極的
>な人生の見方、あるいは信念から出発するところに、意義をもたせた。

 に混乱がみられるような気がします。

 ということで基本的に1から2への移行に疑問があるので、2を上手に読み進
めることができなくなっています。もちろん、1とは切り離してよめば、その論
旨は理解できます。

 なんだかえらっそうに書いて、本当に申し訳ありません。
 どうかご勘弁ください。

答。
久々のレス、感謝します。

うーむ、成住壊空まで持ち出されて、かくも見事に分析されると、全く反論できませ
ん。確かに、存在の、肯定的意義と、否定的意義の、二元論になっているようです
ね。

このように、深く読んで下さる方が、みえるだけで、私は満足です。

「仏法哲学の前提としての信仰」と書きました。仏法の入り口の所で、つまづきかね
ない問題について、なるべく生命論的分析を抜きにして、語る方針を取っています。
生命論を深く勉強された方は、この論も、簡単に映ることでしょう。

ただ、私のこだわりなのですが、なるべく生命論そのものには言及しない方針は変わ
りません。生命論そのものが納得いかないとき、(そんなことは少ないのですが)仏法
の入り口でつまづきかねない、と思うからです。実際に、友人同士が、「地獄、極
楽、餓鬼、畜生...」 と話しているのを聞きました。深い生命論に踏み込んで、友人
を納得させられるか? と考えてしまうのです。十界論ですらそうなのです。

私が、自分の得意な論法に走る傾向はあるようです。未熟な点をご指摘いただき、本
当に感謝いたします。

対話には、生命論や、学会の目指すものを持ち出せば、話は早いですものね。

ついでに、目次を示します。欲望論は、川田博士の著書「欲望と生命」がすでにある
のですが、私として、信仰と欲望について考察中。(次回予告)

英語では、Buddhist's Mythology(仏法者の神学)となるようなものを目指したいで
す。





2-3.欲望と破壊、欲望の本然的昇華としての生、文明と欲望   Index
Desire and Destruction,
Life as a Natural Sublimation of Desire,
Desire and Civilization

欲望については、いろいろの説がある。川田 洋一博士や、フロイトの説を逐一引用すると、一冊の本でも足りなくなる。仏法そのものが、煩悩や、六道輪廻など、詳しく考察している。精神分析で有名な、フロイトも引用しようとすれば、部分ではすまなくなる。原著を、矮小化してしまうことを、最も恐れる。

引用したとして、その論が、私達に納得を与えるものであれば、問題ない。しかし、そうではないとき、どうなるのか? 生命論や深層心理学に納得いかないとき、それ以上対話が進まないのだろうか? それを恐れて、この小論では、詳細な引用を省いてしまう。

「はじめに」に書いたとおり、理論に納得いかないと、対話に入っていけないでは、何のための対話か分からなくなる。生命論を抜きにして、いわゆる導入部分の話に、力点を置く。小さなこともおろそかにはしたくないので、試論だからこそ、ご批判をよく聞いていきたい。

ここでは、1)欲望と、人間の発達、2)欲望の、肯定的側面、3)文明論的課題としての欲望、を取り上げることとして、最小限の考察にとどめ、最も単純化した方法を採る。こういう態度が、普遍性を目指す私の方法序説でありたい。近代人の強靭な知性にも、耐えうるものを、構築したい。

人間の、破壊的側面について、考えるとき、欲望論は、避けては通れない。真の自由は放逸と違って、責任を伴うものだから、欲望の制御や、統制、さらには抑制を間違うと、文明の破壊にも及んでしまう。これは、きわめて喫緊な話題でもある。

1)単純に、まず発達に即して、欲望と、その制御を考えることとする。

(後略)

2-4.分断から結合へ。実践的課題として、エゴをどう昇華するか?(和歌・俳句集)   Index
From Separation toward Reconciliation, How to Sublimate Egoism as a Practical Task? (Collections of Private Japanese Poems and Haiku)

他律から 自律をば経て 独立へ 心からなる 慈愛を込めて

他律から 自律をば経て 独立へ その慈愛又 家庭へ社会へ

明日のため 今を生きよと 柿の種子(たね)

雪にても 黙々として 基礎を打つ

密やかに 明日の開花を 待つ蕾

雪解けを 待ちし桜の 蕾かな

ふるさと故郷の 青葉に祈る朝和をと
(調和)

梅の香に Qualify Lifeと 歌いつつ

両眼に 感謝の光 春間近か

鶯の 音を聞かんとぞ 山里に

関来たりて スタートに立つ 我も今

外に出て 老婆の顔も 桜色

雨をえて 色増してゆく 青葉かな

寒中に 梅のつぼみは 時を待ち

訓練に はげみてぞはや 福は内

歌好きに 生きて生きぬき 笑顔じわ

いつまでも 健やかにてと 福は内

悠悠に 笑顔集いて 福は内

ミレニアム千年紀に いざや巣立てと 福は内

悠悠を いざ独歩をと 春立ちぬ 転ばぬ先の杖 持ちて今

雪もやみ 園児の鼓笛に さす日かな

春の川 見おろし鳥も 句会かな

父逝きて なおなお堅し 春の夢

母子して 独居で迎える 初彼岸

ますますの スタートに立つ 卯月かな

初吟行 ただ一周に 小宇宙

詩人をば 虫や鳥やが 迎えきつ

悠悠に 百合の香りの 集いかな

オリオンの 二十五年も 変わらざる

幾年も 冬の星座に 誓うかな

路端には 昇華の銀河 朝早し

インドにて三万の死を 悼む雪 (2001.1.26東京)

冷たくて暖かなるや 花の風

日ざしありてゆうゆの広場 歌え春

なたね梅雨の合間につれて散歩かな

雨にても 青葉の中に笑顔かな

ふるえても 梅の蕾は春を待ち

園児らの鼓笛につれて 雪やみぬ

雪やみて はしゃぐ園児に さす日かな

鈴虫も遠くにいます君待つか

寒中に 梅の蕾は時を待ち

盛夏にも 影を求めし散歩かな

快き今宵の夢を 月見草

青春の夏も静かな 津保川や

青春の歴史秘めたる津保川を
山は重層 鳥は歌えや

筆もちて弥生に始む句会かな

春の川 見下ろし鳥も初句会

父逝きて なおなお堅し春の夢

母子して独居で迎える初彼岸

かみなりの子等にも似たる インパクト

ますますのスタートに立つ 卯月かな

新しき出会いも楽し 卯月かな

小さくとも桜の群れる明日を待つ

山川の花々の中桜王

寝たきりも桜に連られて散歩かな

津保川の流れ彩る桜かな

植を待つ田畑をかざる桜かな

桜咲き小鳥は歌う 散歩かな

どがらす烏が たまの俳句をあざ笑い

さつき五月十日 米寿祝いて吟行に

タンポポの 種よ飛べ飛べ 風吹かせ

田植え前 レンゲ咲かせて 目も楽し

吟行に出んとて見れば 日も陰る

青々と スイッチョスイッチョの 草いきれ

夏空にジェット機の音 我等待ち

ひと梅雨も明けたと見てか鳥騒ぐ

悠悠に 百合の香りの集いかな

白百合を 愛でる心に 幸光る

百合の香を おしみて集う 夕餉かな

霜の朝 炭焼き小屋に 煙立つ (細江 柳三)

両眼に 感謝の光 春ま近か (母、白内障手術退院日 2001年1月)

3章.生老病死、四苦、八苦と信仰   Index
Sufferings of Living, Aging, Disease, and Death
Four Sufferings, Eight Sufferings and Faith

 人生には、様々な苦悩がある。生まれる始めから、すでに産道を通ってくるときに、余りの苦痛に過去の記憶を忘れるとさえ言われる。これは、にわかには信じがたい説明ではある。生きることが苦しみということを、象徴する記述かも知れない。老いる苦しみ、病む苦しみ、死の苦しみ。第四は最もてごわい。この四つを、四苦というが、釈尊も出家にあたって人生のどうしようもない苦悩をいかに解決できるかを考えに考えたことであろうことが、逸話から伝わってくる。

またこれに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五盛陰苦を加えて八苦という。愛する者との、身を切られるような別れ。不思議に、好きではない人間と暮らさねばならぬ定め。求めて得られぬ何物か。それらすべてが、個人の煩悩からくるのか?いずれも、逃れられない苦しみである。

 これらを、どのように仏法は解決するのだろう? 実践的にみると、様々な苦悩を、むしろ幸福へと方向転換しているのは、生きる主体者の姿勢の変革にあるようだ。かくして、生老病死は、常楽我浄と現れ、人生を彩るものとなる。転換の鍵は、一つ、信仰による生きる姿勢の変革である。


4章.無常と常住、我と法   Index
Mortality and Immortality, Self and Law

 現象面を見る限り、万物は流転する。あの太陽ですら、何十億年すれば、赤色巨星となり、最後は爆発するという。それまで生きてはいないけれど、何という無常の世界であることだろう?

 しかし、いくつかの宗教は、この無常の奥に、不変、普遍の何物かを見つけた。それが、我という自己の永遠性であり、同時に普遍の不可思議な法則であるという。にわかには、信じがたい。

 翻って、一つ科学的に、帰納してみることにする。物理学でエネルギー保存則がいわれる。生物学的にも、生きているこの人間や動物、植物のいのちのエネルギーとでも言うべきものが保存則を持つことは、容易に推論されよう。

 また、生まれたという結果があるとき、その原因は?と問うことは、不思議ではない。しかも、それが他人ではなく自身の原因があると考えるのが、科学的といえよう。こうして、差別化された生の結果は、過去の自身の存在、過去の行為によると認めざるをえなくなる。しかし、仏法は宿業論でもなければ、決定論でもない。

 また死の現実があるとき、その死の原因が、死にゆく自身に、何も結果をもたらさないとは、考えられない。この一生の生の総決算の死が、自身に何か後の結果を生み出すはずであるという信念が生まれる。こうして、真の永遠観が、過去(過来)、現在(如来)、未来をつなぐ。

 思想もまた、発展するもの、すべきものであろう。時代状況が変われば、その不変の法も、表現形態は変わらざるをえなくなる。三大秘法抄の「勅撰並びに御教書を申し下して」など、実践を伴わないで、教条的に読むならば、「路線変更」なる一言ではかたづけられない重大決断であったろうと推察される。王仏冥合論なる伝家の宝刀を、のんきにテレビで堂々と語られていた北条さんがなつかしい。御書は鎌倉時代の思想・体制の影響を受けているが、平和行動は、時代に適合しながら、不変・普遍であらねばならない。

「言論出版妨害事件」なるものもデマゴーグ。国家の非宗教性を意味する政教分離を規定した憲法20条のもとで、なぜ、私的宗教団体と一政党の、組織上の分離に過ぎないものがその一語で報道され続けるのか?

 仏法は、人間主義の宗教、王法は地球的問題群解決に主体的に責任を持つ行動にと、立正安国論に回帰的に、止揚されていたことを、自らの行動の軌跡が語らせている逃し難い事実に、世界の識者は共感するのではなかろうか? 周恩来がじっと見ていてくれたことが幸いしたか? 

思想は行動となって現れる。行動がまた、思想化されるときもある。世代を越え、時代を越えて、変わりゆくように写るかもしれないが、行動の変化の奥底にあるものこそ、変わらざる平和と救済の哲学なのではないだろうか?

4-2.小我、真我と法   Index
Smaller Self, Larger Self, True Self, and Law

 私とは、何だろう?どこから来て、どこへ行くのか?それを問う前に、もう一つ疑問がある。西洋思想は、はたして外道だろうか?内発の力は、一人仏教によってのみ可能なのだろうか?否。

英語の辞書を引くと、Self-の接頭語のついた語の、なんと多いことか!Self-control, Self-regulation, Self-restriction, Self-inhibition, Self-culture, Autonomy自律の語だけでも、たくさん認められる。対応する日本語は、翻訳がほとんどだろう。

ルネサンスや、民主主義、自治のもたらしたものは、学問や、個人主義のみではないようだ。むしろ、西洋人の方が、確かに内発的な考え方が多い。「創造的に生きる」というような語法も、パチンコに明け暮れ、エロビデオが氾濫する日本では、私語になっている。他ならぬ日本人が、モラルを低下させ、味噌も糞も一緒の状態では、鑑賞眼をなくしている。創価が一割勢力とはなっても、社会を変えうる力になっていないのは、仏教の精神が、現世利益のみに偏って解釈されているからであろう。時代は、新たな局面なのに…

 ギリシャ哲学や、ルネサンス以後の西洋思想は、容易に内発的たりえた。中世暗黒時代に、世界に先駆けて学問探究し、個人の自由意志の、外的制約からの解放、国の独立すら推進してきた歴史を見れば、「自らの内なる、やむにやまれぬ精神闘争」が、近代化や、民主主義をもたらしたと理解される。ガリレオ・ガリレイ、ルター、カルビン、科学者達、アメリカ独立戦争はじめとする、きら星の政治家達、奴隷解放のストウ夫人やリンカーン、ガンジー、キング牧師…

民主主義こそ、従って内発的であり、個の自由意志と、自己責任を強調する。社会協働するかどうかも外から強制されはしないが、しないならば、本人に、その責任をとらせる。従って、家族価値の崩壊も、早かったようだ。政府や、政治思想の根底にも、科学や、個の尊厳を見出せる。

日本には、未だに、精神の自由すら存在しない。和を重んずる人々の精神構造によって、等質社会に、個人主義も根付いていない。前近代的な、「長いものに巻かれろ」式にすぎない。だから、心を変えうる、教育百年の計なしには、真の民主主義も、真の豊かさも得られない。文化的特異性をきちんと理解した上での舵取りが、経済政策にすら要求されるであろう。むしろ、文化・教育観が誤っているために、きわめてひ弱な過保護社会になってきた。高齢少子社会は、さらに極端。

東西両洋において、自我を見つめた、思想の発展があった。芸術・文学・哲学・科学にも。相対性理論を発見したアインシュタイン自身、最初、その真理を、心から支持し得ただろうか?だが、光速度不変の観測と、前代の理論とを論理的に説明するには、それ以外なかった。もし彼が日本に生きていたならば、あまりにもユニークと写っただろうから、発表もできず、葬り去られていただろう。それほど、日本人は、平均以下に等質である。いつも全体主義、ファシズムに流れていく原因はこれ。

 「自分探しの旅」これが、他からではなく自律的になされるならば、教育の力は大きい。精神闘争は、しかし、良いロールモデルを選ばねばならない。巨大な精神性にぶつかるとき、人は自らを省みる。「本当の自分は、今のままの自分だろうか?」「私はどこからきたのか?」

その眼は、むろん過去にも向けられる。未来を開く、しかし孤独な旅になることだろう。デカルトが、なぜ「方法序説」と題したのか?一つの「試論」を生み出すことの、困難さと、誇りが、題名から感じられる。

宗教性とは、信じることであるならば、ホモサピエンスたる人間の科学精神とは、対極にあるものかもしれない。無理して盲信させるからこそ、宗教の歴史は欺瞞にも満ちている。私の信仰は、常に、この「疑う心」との闘争である。それはほとんど常に、後者の勝利である。なぜならば、私は人間だから。疑わないですむものを探す旅だからこそ、そこでは区別もなく、自分に納得のいく結論を探す精神の戦いだ。だからここでは、「哲学し」「科学する」事が同時だ。

患者さんを治療し、教育するのに、科学的であらねば、解決の根拠を失う。しかし、実証的な臨床では、常に自分自身、既定観念との闘争をしている。科学は、具象の積み重ねから導かれるから、理論は行動を追いかけていく。従って、私を、「~論」でも、洗脳することは難しい。デリケートな感性を磨くことに一生懸命であれば、矛盾は常に眼前にある。科学も、人生も、信仰も、従って常にたゆみなく向上するものなのだろう。

 真の自我、真我は、スーパーエゴといえるかもしれない。しかし、イドすら簡単には制御できない自身にとって、真の自分探しは、まことにエネルギーを要求される。社会的弱者や、患者さんの存在があるからこそ、医療者は自己を磨くことに力も注げられる。私たちは先生と呼ばれるが、私は常に、患者さんから学び続ける。彼らこそ、先生である。自分探しは、「他者」あってこそ。真の自我も、自分一人では、見つけられない。見つけ、「悟った」と思ったとたんに、その傲慢が、すでに真我とは、対極に位置づけられている。

シグムント・フロイトの精神分析は、欲望や、自我の破壊的側面を掘り下げているかも知れない。20世紀初頭の時代の産物とも言えるかも知れないが、性欲や母子・父子の心理原型を掘り下げる手法は、彼独自のものであり、妥当性もあろう。しかしこの小論は、慈悲の心理から書き始める事に意義を持たせているし、この章ではフロイトの結論部分であり得るスーパーエゴに焦点を当てる。仏教で説く真実の我とスーパーエゴは同義ととらえられても良いが、実践的に、どうそれを強められるかに考察を加えて、日々の糧としたい。人は手から口へ食べるために生きているのでもなく、エゴに生きて結婚生活がしあわせであればそれでよしとするものではない。自分以外の「他者」、殊に弱者の存在があって、そのために奉仕する熱心な毎日が、自分の人間性を高めるからである。「女は弱し、されど母は強し」(ビクトル・ユゴー)

30歳までオルガン奏者で過ごしたシュバイツァーは、アフリカに近代医療を導入し、慈愛の医師の典型である。医学は人々を救う科学の典型であるし、弱者相手の臨床の日々は、知性と慈悲の往復とも言える。 他者、弱者は、スーパーエゴを強め鍛える。むろん、自分の人気取りではなく、真摯、熱心な毎日が大切であろう。シュバイツァーは「生命への畏敬(おそれ) Reverence for Life」という言葉を残している。
(後略)


5章.方便現涅槃と本有の生死-- 真の死生観の確立のために   Index
Present Death as Expedient Means, True View of Life and Death

6章.永遠と瞬間   Index
Eternity and Moment

6-2.無始、無終と久遠元初   Index
Without Beginning, Without Ending, and Eternal Beginning

6-3.久遠即末法   Index
Oneness of Eternity and Latter Days of the Law

7章.従因至果、従果向因と因果一念の宗   Index
From Cause to Effect, from Effect to Cause, and Cause and Effect in One Moment of Life

8章.民主の時代と、自律、友情の源泉としての信仰   Index
Age of Democracy, and Faith as an Origin of Autonomy and Friendship

 第二の千年から、第三の千年へ、時代は確実に、戦争から平和へ、民衆自身の力によって動いている。民主化の動きも、いやまして、高まっている。東西冷戦後の、新たな秩序の模索。台頭する民族主義、宗教原理主義。旧ソ連のペレストロイカ後の混沌、中国の社会主義市場経済、EUの統合、等。9.11テロと、アフガニスタン戦争、イラクを巡る緊張については、多くを語れない…

 あの湾岸戦争の時、学会として何ができただろうか? SGI会長は、一人メッセージを送り続けられた。我々は、小数の署名を集めた。しかし、イラクが撤退を表明しても、多国籍軍は攻撃を続け、結局は、軍事的解決に終わったかに見える。

世界最大の平和勢力を誇る我々は、マイナーな存在でしかなく、国際関係の常識は、現在も、軍事用語で説明される事が多い。それは、力による民衆支配の構図が、少しも、変わってはいない事を、残念にも物語る。

民主の時代はまた、混沌の時代でもあるか? そこでは、モラルは低下し、文化は強さを失いつつある。宗教も又、人間を変え得る力を、失う危機すらはらんでいないか? 飽食の先進国で、政治・経済主義に堕さざるを得ない途上国で。

このような時代に生きるとき、信仰の純粋性と、時代・社会への変革力は、いかにして保てるだろうか?

一人の力は偉大である。目覚めた一人がいれば、家庭が変えられる。社会を変えられるし、国を、時代を動かしていける。要はしかし、核の一人が、いかに自分自身の無知に気づくかである。一人の人間の無力に気づくかである。ソクラテス対話の特徴は、彼自身の意識や、精神闘争にあったであろう。自身の弱さを悟るだけのデリカシーがあれば、たとえプラトン一人であったとしても、真に次代の変革者とすることができた。自身著述を残す余裕はなかったが、代弁者が、記録してくれた。結果的とはいえ、偉大な個人、偉大な精神闘争は、後継者を育まずにはおかない。

次に、利他と自律・独立への教育的配慮が、重要であろう。貧困、飢餓、南北問題、生態系問題、識字など教育問題、情報革命など、地球的問題群が、喫緊の課題である時代には、社会運動への目を開き、利他の実践が、具体的に力強くなされるべきであろう、目覚めた一人の、発動によって…

「万葉の歌ともどもに」と歌うならば、俳句、和歌集などを編纂したい。石川五右衛門ですら「世に盗人の種は尽きまじ」と辞世が詠めたが、最近の日本人は、詩心を忘れ、Identityを失った。もう一度、季語入りの俳句からスタートしてはどうだろうか?「簡浄の美、俳句・和歌運動」を提唱する所以である。ネット時代に、俳句・短歌人口ともに増えているといわれる。

囲碁もまた、日本語とも縁が深く、世界の知的ゲームとしては最も洗練されたものである。チェスを越えて、普及の兆しがみられる。日本最古の棋譜は、後日の創作とは言われるが、日蓮大聖人と、日朗と記されている。日朗は、もと日興と記されていたかも知れない。御書にも、「囲碁と申す遊び」の記述がある。本因坊などの歴史と、本因妙の仏法。碁書研究もあって良い。聖教新聞に、「価値戦」導入を訴える。要は、日本文化の良い面を継承し、会員の能動性を引き出す、教育でありたい。

私の考えは特殊である。田舎ものの飛騨人としては、「草履編み」をする。植林運動も、精神教育と結びつける。

海外の日本人は特に、日本語・日本文化の普及運動との、融合をすすめるべきである。アイデアは、上記に限らないであろう。ライシャワー夫人などがすすめていられると聞く。

善の連帯はいかにして可能だろうか? 精神教育の核としての信仰もちろんであるが、一つの宗教に限らない。ボストンの英語学校で、外国から来て、カトリックの教会で働く敬虔な学生と一緒だった。例えば安楽死問題などで話し合ったとき、彼が、私と強く共感を分かち合ってくれた。人類兄弟Brotherhood、 両親性Parenthoodなど、私達と共通の哲学を持っている。ムスリムの旅行者とは、「Brother!」と、背中をたたき合った。

宗教の違いは、家庭不和や、戦争すら引き起こす。信念が強固だからであろう。しかし、心開いて社会問題に目を向けるとき、協働も可能となる。日本人は、いわゆる宗教心を失って久しい。反対に海外では、宗教心厚い人が多く、また混沌たる文明の中で、ますます信仰者の使命が重大とされる。8人部屋のホステルでは、私の祈りや、Chantにも、敬意を払ってくれた。いきなり「仏は内在的普遍」の話をしても、「それは神だと信ずる」と答えが返ってきた。哲学者、誠実な宗教家は、最も尊敬を集める。

9章.使命と願兼於業(法師品第十)   Index
宿業論の差別観の発展的解消のために
Mission and Gan-ken-O-Go (Great Desire Involves Karma)
Willingly Relinquish the Purified Karma to Save the People
----Teacher of the Law Chapter of Lotus Sutra
To Resolve Discriminative View of Karma Theory

モーゼ、キリスト、マホメット、ジャンヌ・ダークなど、神の啓示を受けて、宗教的使命に目覚めた人は多い。いわゆる預言者、強固な宗教的体験など、比較的若い時代に、「救済者」として自覚する人も、数限りない。不幸な時代であるほど、「私が他を救わねば」と自然に考えるであろう。信念が、強烈な使命感と一体となるとき、「宗教的救済者」を生みだす。医療に携わる人間の中にも、熱心な仕事の継続が、同様の自覚を育むときも多い。

仏法者は、「利他の精神」「救済者」を、菩薩と呼んでいる。中でも法華経法師品に説かれる「願い業を兼ぬ」は、宿業観を含んではいるが、極めて実践的に、使命の自覚を促し、救済者を育む。仏教は、宿業観も、決定論も統合している。

仏法は宿業観を説く。自己決定論である。「過去の因を知らんと欲せば、その現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、その現在の因を見よ」と。すなわち、現世での、悩み多い生の差別相(例えば障害)は、自身の過去に原因を求める。これは、現在の行い、「心、会話、行動」によって、未来を変えることもできることになる。この未来は、むろん現世での将来を含む。すなわち、宿業転換と呼ぶ。

ともすれば、この宿業論は、過去に目を向けすぎるとき、差別観ともなりうる危険性をはらんでいる。「自分は、重い宿業を持っているから」と現世をあきらめるとすれば、現状変革の力をそぐことになる。障害をバネにしうるか否かは、自身の内面にこそある。

宿業は致命的だからこそ、「運命」ともとれる。自身の最も痛いところに現れるから、人は自身の運命を呪う。ベートーベンの第5交響曲は、この障害のテーマが、全編を貫き、「かく扉たたきし」リズムが、4楽章では歓喜の大爆発となって歌い上げられる、実に見事なものだ。(彼の境遇よりも、)音楽そのものが、障害をバネとしうる精神の強さを、極めて美しく音化している。それは、第3交響曲でも、ピアノソナタ「ワルトシュタイン」「熱情」でも同様だが、大きな音楽の中に昇華されていて、聞く者をまた奮い立たせる。白鳥の歌ともとれる、後期ピアノソナタでは、緩徐楽章の中にジャズに似たリズムすら現れて、彼の真骨頂、極めて「勇気ある、普遍的な美」となって語られる。

楽譜というものの不思議さ、偉大さ。ベートーベンはただそれを残したが、いくつのオーケストラが、何人の名手が数限りなく演奏したくなることだろう。演奏のたびに、新たな発見があることだろう。

ここに、「障害者こそ社会の主体者」となる、一人の人間がいる。音楽家として致命的なつんぼが、最も偉大な楽聖と生まれ変わった。彼はつんぼを克服できはしなかったが、ほかの悩みをもバネとして、作曲家の使命に忠実に生きた。その内面は、音楽を聴けば感じられる。創造的生き方もそうだが、創造した作品自体が、多くを語りかける。

むしろ、悩みが深かったから、心の葛藤が大きかったからこそ、その心が深いメロディーを生み出し、音楽をより力強くしたのだろう。無意識にあふれ出、無意識に改訂を求めたのかもしれない。そうでなければ、ただ一つの歌劇が、「フィデリオ」であり、序曲を4つも書いている説明が付かない。結婚しなかったからこそ、夫婦愛の理想を歌い上げられた。主人公は、無実の夫を救いに行く「男装の女性」。

「思想の中の、もっとも深奥なるものは、決して高い言葉で語られるものではない。」(「ジャン・クリストフ」ロマン・ロラン) 以下から、難解な引用になるが、おつきあい願いたい。

法華経法師品十には、「薬王よ。当に知るべし、是の人は自ら清浄の業報を捨てて、我が滅度の後に於いて、衆生を(あわれ)むが故に、悪世に生まれて、広く此の経を演ぶ。」(p.357)と記されている。

妙楽の解釈「次に薬王より是の人は、自ら清浄の業報を捨ててとは悲願牽く故に仍お是れ業生なり。未だ通応あらず願、業を兼ぬ。」 願兼於業とは、一切衆生を愍むが故に自ら願って悪業を作り、悪世に生まれて、民衆の苦悩を一身に引き受けて仏法を弘通することをいう。

日蓮大聖人は御義口伝(p.736)において、「第二 成就大願 愍衆生故 生於悪世 広演此経の事」と、原典を切り文で引用された上で、「大願とは法華弘通なり 愍衆生故の人とは日本国の一切衆生なり 生於悪世とは日蓮等の類なり 広とは南閻浮提なり 此経とは題目なり」と、あえて願兼於業には言及されず、菩薩の使命を強調されている。

願兼於業について大聖人の記述は、開目抄(p.203)に「例せば小乗の菩薩の未断惑なるが 願兼於業と申して・つくりたくなき罪なれども父母等の地獄に堕ちて大苦を・うくるを見てかたのごとく其の罪を造って願って地獄に堕ちてくるしむ苦に同じ苦に代われるを悦びとするがごとし」とあるが、きわめて適切な例示とは、言い難い。

関連して佐渡御書(p.960)に、「高山に登る者は必ず下り 我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん 形状端厳をそしればしゅうる酬陋の報いを得… 是は常の因果の定まれる法なり、日蓮はこの此因果にはあらず」と、通常とは異なる宿業転換の法則を暗示されている。

これらを通読するとき、強力に読者に訴えるものは、「救済者としての使命感」であろう。しかし、菩薩の悟りの内容については、むしろあからさまには表現されず、隠されていることにも気づかされる。実践者が、主体的に感得するものだからであろう。

法華経そのものも、釈尊の教えと言うよりは、没後半世紀、仏教徒の編集にかかるものだ。文学的表現の奥に、よく紙背に至るときには、このような、悟りの内容に関わる記述にも気づかされる。要約すれば、「民衆救済という、大きな願(使命)を果たすために、あえて苦難の宿業を兼ねて悪世に生まれる」というものである。このような、本来の自身、真実の自身を自覚できれば、宿業は一瞬で転換できている。あとは、利他の実践が待つばかりである。これらの内容は、ジャンヌ・ダークなどへの神の啓示と、あまりに酷似しているではないか?

法華経法師品の偈(p. 360)を、引用の最後とする。
「清浄の土を捨てて 衆を愍むが故に 此に生ず
当に知るべし是の如き人は 生ぜんと欲する所に自在なれば
能く此の悪世に於いて 広く無上の法を説く」

なお、「(あわれ)む」と民の心に同苦する意味の漢字を用いてあるのは、立正安国論の国の字に[民]と囗の中に民の字を多く用いておられるのと、同じ趣旨だろう。社会的弱者に対する共感、宗教者における他者性は、かくも徹底したものなのだ。羅什三蔵訳の、名訳といわれる、また一つの証拠である。従って、この字は、無辜(むこ)の民の声を聞き、エコロジーの現代では、地球や、動植物の声をも聞く感受性をも意味せねばならない。大聖人は、確かに、正嘉の大地震で多くの方がなくなり、実相寺にこもられた。ご自身の創宗に反応する地球の声を聞かれ、深く化導法を考えられたのち、立正安国論を編纂されたと解釈している。反逆する人を、還って苦しませることになる。しかし、反証が得られるということは、力ある法の証拠でもある。この、慈愛の心の内実を、自ら正直に吐露されていられるではないか。(開目抄など)

他のために何ができるのか?未来のために、何を残さねばならぬのか?新千年紀のいっさいに責任を感じざるを得なくなった今、故国を離れざるを得ないという矛盾。人の宿業は、確かに、もっとも致命的に現れる。創価教育学各論を、平和教育としていずこかの地で具体化する。日本には、逆輸入させてみせる。苦しんだ人間、障害を持つ人間、弱いとされてきた人間こそが、これからの主役であらねばならない


(以下は、パソコン通信でのレスのやりとり。)
【弁護士の高島章さん、ルーテル教会のクリスチャン】
はじめまして。

 ベートーヴェンがお好きなご様子ですね。
 私の方も,今度の4月14日,ベートーヴェンを歌いに東京まで参ります(FCLAP
というフォーラムのプロジェクトです)。
 出し物は,荘厳ミサ曲・ピアノ協奏曲第5番(皇帝)・第九の第4楽章です。
 荘厳ミサ曲は,一昨年の秋,東京交響楽団のコンサートで歌ったのですが,昨日
楽譜を出してみたところ,だいぶ忘れていることが判明しました。シンコペーショ
ンが掛かってフレージングがよれるあたり(これが正確な表現か分からない)でお
かしくなってしまいます。ミサソレでは,こういう「撚れ」が良くあるのですね。
 「歌う前にグラウンド10周して気合いを入れよう」とか冗談が飛び出すほどの,
体力勝負の曲です。

 クレドの譜面を見ると,彼の信仰というのが,良く分かります。キリストを聖人
君子の一人扱いしているというのは,伝記を読んで知っていましたが,当時のロー
マ教会という外的制度に対する軽蔑(「聖霊 唯一の聖なる公の使徒承継教会を信じ,
罪の許しのための唯一の洗礼を信認す」が,あっという間のスピードで歌い飛ばさ
れている)と,来世の生への熱烈な希求(エト ヴィータム ヴェントゥリ セクリ,
アーメン 長大な二重フーガ)・・・。どう考えても模範的な信仰,模範的なミサ
曲とは言えません。当時のローマ教会信仰からも,正統的プロテスタント信仰から
も離れたものです。
 来世の生への熱烈な希求は,彼の現世における悲惨に胚胎しているのでしょうか?

 アニュス デイには,内的平和と外的平和という副題が付いていますが,これも,
歌ってみると意味が良く分かります。外的な平和を求める不安におののく激しい祈
り,それを蹴散らすかのような進軍ラッパを経て曲調が替わり,内的平和を求める
平和な美しいメロディーが続き,全曲が静かに(つまりこれ見よがしの盛り上がり
もなく)終わります。ドーナ パーチェムです。ドーナ ノービス パーチェムで
はなく! ある意味,仏教的ですね。


 第九の方は,今まで一度も歌ったことがないんです。年末のアマチュア第九コン
サートっていうと「合唱生まれて初めて,楽譜もドイツ語も読めない」というメン
バーとおつき合いしないと行けないし,聴衆も「職場の同僚・家族」が多く,第4
楽章になってざわざわ入場してくるという連中が多いわけです。曲もはっきり言っ
て騒がしくて嫌いですし。
 ま,食わず嫌いも大概にして,明日にでもヴォーカルスコアを買って,音取りを
はじめようと思います。

答。
ベートーベンについては、「き」の字がつきますね。標題とはかけ離れていきますし、
元に戻って、ここをFCLA分室にしないように取りはからいます(笑)。本来なら、「第五
交響曲」とでもタイトル変えてすぐに音楽評論に移りたいのですが、そうしたくなくな
りました。

荘厳ミサ曲は、聞いていませんので、済みませんよく分かりません。音楽を選ぶに当
たってキリスト教的なものを、むしろ自分のこだわりで避けてきたのかもしれません。
ベートーベンでも、有名なものでは、これのみかもしれませんね、聞いていないの
は。Bostonに三ヶ月滞在した2000年暮れ、ちょうど Symphony の百周年だとかで、小沢
征爾さんが創立時と同じ荘厳ミサのプログラムを組まれたのは、プロテスタントの国な
らではでしょうか?それとも、ベートーベン自体キリスト教的だったのでしょうか?

彼に関する限り、極めて普遍的な美を目指したと思ってきたのは、極東の野蛮人の聴き
方なのかもしれませんね。CDを探してみます。尚、五番(1957/5/27ライブ)と言い、九
番と言い、私は、Furtwangler 版以外をおすすめできません。「やかましい」と言われ
れば、これほど雷神的な演奏もないでしょうし、音はきれいに洗練されていはしないで
しょうけれど、「手垢にまみれたクラシカー」ではない、今まさにそこで作曲が行われ
たかのような、再現芸術の神髄が聞かれることでしょう。

「じーんとくる」「ぞくぞくさせられる」ものがないと、なかなか買うことができませ
ん。第九練習用のは、テープも出ていたと思いますが、「ウーーーウーーー」の所はほ
とんどの人はきちんと歌えていませんでしたし、指揮者すら素人を見越してか、「ここ
はオーケストラに任せて」など言っておりました。一度しか経験はないテナーです。

標題の四文字が重いのは、自分で選んだこと。内的平和、外的平和という使い分けに、
それほど敏感ではありません。友人のキリスト者が、私のホームページを見てくれたの
か、「心の平和」なる用語を書いてくれました。残念ながら私は、音楽を聴くのも、自
らを興奮させて、鼓舞したいために聞いていたこともあり、「熱狂」をもってすばらし
いと感じます。Furtwangler の版でも、ライブに惹かれるのは、そのためでしょう。心
の平安は、いつも得られません。またこれが目的で生きてはいません。生意気なようで
すが、医療者としての20年は、自分の人間を変えるのに十分でした。今は、母の介護の
ため、仕事を休んでいます。パートで、少し始めたいと思っています。ホームページか
ら、これらの情報もたどれるようにしています。

また、Real Player でオリジナル曲が聞けるように設定しました。「蛍」については、
英語版歌詞もできましたので、そろそろ録音をしなければなりません。お暇つぶしに、
ご感想お聴かせ下さい。岐阜県下呂在住。

答 -2。
五番(1947/5/27ライブ)の間違いでした。
          ↑


9-2.使命、身口意の三業、そして行動主義   Index
Mission, Physical, Verbal, and Spiritual Karma, and Activism

私の「業」のとらえ方は、身口意の行動主義である、業とは「行い」の意であるからだ。宿業説は過去を向き、差別的にも作用する事はすでに論じた。業とは自己決定論であるとは、外部の識者の声でもある、原罪論との対比としても。

現在の一瞬の行動、言葉、認識・思想が未来社会を決定づける。「未来の果を知らんと欲せば、この現在の因を見よ」との後半が人類の宿業転換の主張であるとすれば、仏法基調の行動主義 (Activism) は、強力な裏付けを持つ。純粋な一人の社会行動、祈り、心理認識・思想、そして友好対話が、歴史をも変えていけるとの仏のご約束と拝せられるからだ。

例えば、偉大なる魂ガンディーは、ヒンズーであり後継者達は、ガンディー主義者と呼び慣らしている。自身はガンディー主義とは呼ぶなと遺言しているし、市民の認識は、「マハトマ」の尊称が示すように、現代の釈尊そのものといって良い。アシュラムでのカースト否定の教育や、塩の行進に見られる、極めて実際的、実現可能な魂の独立運動。非暴力に徹した断食の祈りの姿勢は、「精神の国」インド全体を揺り動かした。彼自身の言葉によると、「自身純化の祈りがある地点に到達した時、行動が開けてきた。」

2001年を超えて、「21世紀」や、「世紀の運命を変える」という言葉が使われるとすると、その社会の未来性には疑問符がつく。用語法も変化し、変化は加速しつつある第三千年紀であるからだ。

10章.人格(人道)価値の創造について 創価思想の根源的問いかけとは?   Index
Humanitarian Value Creation?
-- What is Fundamental Question of Value Creation Philosophy?

 牧口会長の「価値論」の持つ今日的意義について疑義を差しはさむ人もいるようであるが、戸田補訂版を読むからであるし、私はそうは思わない。

 以前、禅に興味を持っていたというアメリカ人に、真の大乗仏教について対話する機会を得たが、創価学会を翻訳して Value Creation Society と言ったところ、What value? とすかさず聞かれた。Human Value と説明し、How to live creative life? が主題であると説明したら、すぐ納得してくれた。創造的に生きるなどということは、彼らにとって常識なのだ。

実は、彼と対話した後に、創価教育学大系 第二巻第三篇 価値論の中で、「第六章 人格価値」に触れ、我が意を強くした。しかし、英語で対話する限り、極めて自然に出てきた表現だった。ここに、牧口常三郎全集版原著から引用する。Boston Research Center の "Women's Human Values" シリーズは、人格価値を分析的にとらえるから複数であるが、分析的に数えたとて何の意味があろうか。浅はかなリサーチビジネスマン達、何人そろったとしても! 牧口の意図する"人格そのものの価値"は、uncountable である。毎日、一瞬一瞬、岐路に立たされている人の道(人道)もいくつもある道理がない。人の道がいくつもあれば混乱の極みであろう。古の帝王は「一饋に十起して、」民を思ったのである。人道の王道を行くものが、人の王である。
第六章 人格価値
第一節 人格価値の概念及び等級

吾人が、(ここ)に論議の対象として居るのは人格的価値ではなくて、人格価値である。といふのは人格らしき価値ではなくて、人格そのものの価値を意味するのである... 世間には往々人格的価値といふ名称が見受けられるが、吾人の不敏か、その何の意味たるやを判然と解しかねる。そは人格様の価値といふものゝあらうわけもないからである...

...斯うして人格といふ詞は既に或る評価を意味し、而してその結果たる価値を表すものであること殆ど価値といふ言葉と同意味に使用されて居る。価値の有無、高低、尊卑等は、人格といふ言葉と交換しても差し支えなき程である...
 文法注釈は畏れ多いが、人格的と人格が価値を修飾する語ではなく、いわゆる「人格=価値」と、同格に結びついているのだろう。観心の本尊抄の、「のの字」についても考えることが多い。価値観が多様化してきた現代であるが、人格(人道)創価学会 Humanitarian Value Creation Society 創立者の、創価の命名は価値論に基づいた創価教育学によってなされ、困難な状況の中で命がけでなされたことに、深い敬意を払う必要があろう。

 リハビリテーションの哲学の中でも語られる人生の質 Quality of Life も、to Qualify Life 人生の質を自ら高めるとした。通常は、Quality of Lifeと、名詞であるが、動詞 Qualify にこそ意味ありとして、テーマ曲3番の歌詞ができあがった。父の一周忌だった。哲学するも行動伴わねば、自語相違の言葉のみ先行していく。科学も"する"もの、再現可能な真理を言葉や論理に帰納していく執念の日常であるし、命がけで哲学する(演繹)とほぼ同時進行することになる。人道実践なき宗教哲学、人道哲学なき科学も、人類終末への暴走を止められはしない。

閑話休題。(後略)


10-2.あくまでも、人格(人道)価値創造に主眼があること。言わば、信仰を人生哲学として行動の根底におく路線は、価値論で明確になっている。     Index
Faith as Life Philosophy is Foundation of Actions

10-3.宗教革命、人間革命、社会革命という図式の基礎--創価教育   Index
Humanitarian Value Creation Pedagogy -- Basis of Religious, Human, and Social Revolution

10-4.近代知性と、信仰との対決が、氏の中で統合されつつあった、希有の試論   Index
Rare Example of Integration of Conflict between Modern Intellect and Religious Faith

10-5.利の価値のもつ人間的側面   Index
Humanitarian Aspect of Value of Economy

創価教育学大系(総論)は、「経済を原理とせよ」と教育経済から開始されている。Economize(verb) Educationと、利する、効率化すると、教育効果を上げたい発想であろう。価値論によれば、教育における利の価値とも言える。教育学で、経済性とは、最小の努力で、最大の教育効果をあげる事を言う。能率とも言える。今日の、HVCS-Japanese の解釈(自分が幸福になることが先決とする、功徳信仰)とは、異なった主張を、教育経済思想に見る。価値論は、創価教育の前提である。従って、利は、economy economize の訳が妥当である。

国家神道の宗教政策に反対して、紙札をまつらなかったという事実は、日蓮仏法の教義からも来ているが、養父善太夫の人徳、平和主義者の牧口の人格を思い合わせるとき、口実の一つであったかも知れない。「反戦」をあからさまに語るよりは、より多くの重要な足跡を残すことができた。それでも、「尋問調書」は検閲されて原稿は不明。「一冊になるほど」書かれた獄中文書も、資料性では第一級のものが、おそらくはすべて焼却されたと推察される。牧口の無念さ、思いあまるものがある。

戸田時習学館は、多くの有能な(戦後の)学術者を輩出した。生徒であって、後京都大名誉教授になられた方の記憶によれば、戦時中、戸田城外自身、時折、戦局の真実を、生徒に語ってくれていたという。「平和」という言葉すら、検閲された時代である。極めて社会的に規制され、練られた表現の中で、文脈の奥底を読まなければ、真実にはたどり着けない。「創価教育」の命名自体、カントの、「教育学」や「永久平和」を極めて意識していると推察される。大東亜共栄と誤解されかねない困難な状況の中で、「平和教育」とはいえなかったが、教育百年の計の根底に、「利他と自律・独立人格」教育を意味する、「創価教育」を命名され、自ら実践された。

牧口が自習学館に来訪される日、戸田氏は、朝から極めてそわそわし、落ち着かなかったという。豪放磊落な城外もあがって、師の前には恭順な生徒そのものであった。牧口の存在自体が、他を最小の努力で、最大に教育していた事実--教育経済に対する論及は、決して拝金主義や、功利主義ではない。いわば、Humanitarian Value Creation Society 人格(人道)創価学会の哲理=慈愛の行動は、創価教育者、牧口常三郎の中に肉化されていた。

功徳信仰も、戦後の混乱期には意味を持ち、実際に多くの個人的苦悩を解決させる契機となった。関心が地球的問題群の解決に移るべき時代、個人の苦悩よりも未来世代に焦点を移すべき時代には、しかし、かえって誤解を招くことになる。HVCSは、拝み屋集団であって良いのだろうか? 1990年から「世界市民教育の10年」を提唱され、宗教の優劣を、世界市民輩出競争で競うとまで宣言されたが、失敗に終わったかにも思われる。HVCSからは世界市民は輩出されず、かえって外部に、ボランティア活動が盛んとなった。HVCSの平和行動は縮小の傾向をたどり、「船頭多くして舟山へ上る」幹部は多くても、「一将功成りて万骨枯る」一人舞台となりつつある。新千年紀日本社会(世界も)は急速にモラルや力を失い、誰も変えることが不可能なほどに、冷笑、退廃の一途をたどっている。

誰かが、勇気を持って「平和後継」の行動を興す以外にない。その存在自体が、平和教育・平和運動の一粒種となる。もう一度、更にもう一度と「世界市民教育の10年」を繰り返していく以外にない。

10-6.結果的に、論者の殉教が、根源的な悪との対決姿勢を証明し、後には全人類の幸福の源泉となった。   Index
In Result, Dying a Martyr of Author Indicated Protest against Fundamental Evil and Caused Happiness of All Humanity.


10-7.利他の実践から宗教的自律、独立へ--価値論の舌足らずを援護したい   Index
From Practice for Others to Religious Autonomy, and Independence
I Wish to Cover Misunderstanding of (Human) Value Creation Philosophy

11章.人間らしさの根本に信がある。   Index
Faith Lies in the Basis of Human Nature
信の体系としての宗教
Religion as a System of Trust
生き方の根本姿勢としての宗教 誰もが宗教を持つ
Religion as the foundation of life; Everyone Has His Religion

12章.宗教、思想は選ぶものである   Index
Religion or Thought is What We Choose
宗教の五綱、比較宗教学の必要性
The Need of Comparative Religious Study
折伏行の正当性と、真の寛容、神学的非寛容
Shakubuku or Propagation, True Tolerance and Theological Intolerance

13章.生き方からみた五重の相対   Index
Fifth-fold Comparison from the View Point of Daily Life

14章.種脱相対の意味するもの 釈迦仏法と日蓮仏法の決定的な相違は何か   Index
What is the Critical Difference between Shakyamuni and Nichiren Buddhism?

ご本尊の偉大さと、信仰実践の勤行中心主義に限る、という結論を、先に呈する。
Conclude Greatness of Gohonzon and Gongyo Centered Practice.

15章.「教法流布の先後」の独創性、と人格(人道)創価学会の人材路線   Index
Originality of "Sequence of Propagation of Teachings", and Able Persons Oriented Guide Line of HVCS Movement

16章.不軽菩薩について   Index
Bodhisattva Never Disparaging

16-2.折伏行の持つ人間の尊厳観と、非暴力   Index
View of Human Dignity in Shakubuku Practice, and Non-Violence

16-3.ガンジー、リンカーン、ケネディーと不軽菩薩   Index
Mahatma Gandhi, Abraham Lincoln, John F. Kennedy, and Bodhisattva Never Disparaging

17章.殉教こそ信仰者の至福(牧口常三郎先生の尊いご生涯に寄せて)   Index
Dying a Martyr is Religionist's Happiness (on the Invaluable Life of Mr. Tsunesaburo Makiguchi)

18章.創価教育と師弟   Index
Humanitarian Value Creation Pedagogy, and Mentor & Disciple

限りなき対決と相克のはてに伝承されきた基本精神は、自ずから大感情を伴っていた。

師弟の重大さは、信仰者に限らず、人生の根幹に関わるだけに、論ずることは、私には畏れ多い。史実を記述するにとどめる。Description of Historical Facts such as:

1)ベートーベンとシューベルト
Beethoven and Schubert
2)釈尊と声聞の弟子
Buddha and the Disciple of Voice Hearers
3)大聖人と日寛上人
Nichiren Daishonin and 26th High Priest Nichikan
4)牧口戸田時代
The Age of Makiguchi and Toda
5)ソクラテスとプラトン
Socrates and Plato
6)令法久住への課題 真の歓喜が必須
Tasks for Making Law Eternal: True Delight is Essential


19章.仏教史概観   Index
Outline of Buddhist History

19-2.日蓮本仏の信仰(開目抄)   Index
Faith That Nichiren Daishonin is The Original Buddha (Opening the Eyes)

19-3.凡夫本仏と久遠本仏。言語化は困難を伴うが、一体のものとする信仰に立つ(文底秘沈抄、四信五品抄)   Index
Ordinary Person is True Buddha, and Eternal Original Buddha

19-4.祈りの姿勢、と正座   Index
Attitude and Posture of Prayer, and the Folded Knees Sitting

カナダ、アメリカなどで理学療法士として働き、大学院で勉強してこられた恩師が、印象的に語ってくださった。確かご自宅へ皆で押し掛けた日。Do-it-yourself日曜大工も得意の、万能選手。もとはずうずう弁も、英語発音は、きわめてNaturalな方。遅刻常習犯を、すぐそばの寮まで起こしに来てくださった。初期に海外からの療法士に習っていたころから、伝統的であるとききし。
少数精鋭(20人学級)、討議を中心とする授業スタイルは、独特。

怠惰Lazy な学生は、万国共通の悩みらしいが、厳しくしかられもせず、むしろ授業を興味深く工夫しておられた。おもしろくなくなるとよく居眠りをし、たまにはFM放送の、バックハウス最後の演奏会をエアチェックしに寮まで走った。ただし討論になると、私はよく発言する方なので、「あいつは眠って聞いているのか?」と言っておられたとか。

Inhibition抑制の方法数ある中で、生理学的原則を討論した。自己抑制にも、長いストレッチはじめ、様々。恩師がヒントを出して、皆に考えさせたかったものは、ルード女史などいろいろアイデアを提供されたから。長いヒントの後、私が気づいて生理用語で「Reciprocal Inhibition拮抗抑制」と答えると、板書して「Facilitation of Antagonist拮抗筋の促通」と書かれた。Agonist主動作筋にとっては、拮抗抑制。西欧の表現は、実際的かつ厳密。

例えば、体前屈の柔軟性がないとき、膝後ろの、筋が短縮。ストレッチで確保しようとするのは、原始的な自己抑制。他人にぐいと押してもらうと、速い伸長はかえって筋を収縮させる。やり方によって、速やかに自分で確保する方法のほとんどは、拮抗抑制。身体運動のみでなく、様々な方面に応用可能な、大切な教育法でもある。(大いに脱線)

さて、椅子生活と畳生活では、明らかに椅子生活が機能的である。骨折の後の方などには、椅子生活を薦めるし、和室すら少なくなってきたのは、高齢社会にとっても、良い方向かもしれない。

かの恩師も、「日本に帰ってきて、畳生活に慣れるまでに、時間がかかった」と言っておられた。要するにソファーや、椅子生活では、重心が高いことに着目したい。日本人の短足胴長やオーO脚は、明らかに畳生活や、正座習慣が災いしている。環境は、運動や、骨格発達に影響するから、体操選手などは、正座を強要しない方がよいと、私は考える。日本婦人の先輩市民に多い、膝関節症も、明らかに正座が原因。理学療法士として、当然の忠告。

正座での長時間の祈りは、献身的ではあるが、膝には大敵。先輩市民には、おすすめできない。無理をせず、椅子でも良いし、その方が歩行、長寿には向いている。

江戸時代には、大名行列に、地べたに土下座させたようだが、日本人は、まことに権威に従順。唱題は楽しいものだから、拷問である必要は決してない。海外でも、唱題会で日本人の私は正座をしたが、皆には椅子を薦めた。療法士だからと言って。

心の祈りの姿勢について、私は、「貧女の一灯」を心がけて、平和のために、真心を尽くしている。真心は、踏みにじられたり、誤解されたりも多いけれど…「ゾウのしっぽ」をとらえて、自分の基準でしか判断できない人がほとんどだから、私の真意は、誤解され続ける。しかし、私の行動の基準は、「永遠性」にあるわけで、戦いは来世までかかるものならば、仕方のないこと。平和行動が、華やかである必要はない。

「善いことはカタツムリのごとくすすむ」ガンジー

彼の、牢獄での断食の祈りと、インド民衆への影響力。「世紀の奇跡」と人に呼ばしめたものは、「至誠天に通ず」というものとしか思われない。インドは、偉大な精神を生んだ。インド民衆もそれに答え、それに続いて、「魂の独立」を勝ち取った。

音楽のあこがれの国、チェコと、スロバキアは、「歌う革命」によって極めて平和裏に分離した。世界連邦が失敗に終わり、国連のもとで各部族すらその誇りを主張するのは、ガンジーの考えから見ても、世界の常識でもある。多様な中での共生の時代。牧口会長の、「郷土科」重視は、あの全体主義の時代に、極めて普遍的であられた善き証拠。私の祈りは、10年がかりで郷土の歌に結実した。私のIdentityは、貧乏小作農の子孫だから。


20章.観心の本尊、信仰の真の対境   Index
Object of Fundamental Respect (Gohonzon)

   信仰の真の対境
The True Object of Warship
根本尊敬
Fundamental Respect
   本有の尊形
Genuinely Respective Figure

観心の本尊と、私達の信仰
True Object of Devotion for Faith and Our Practice

勤行と布教、御書、友好拡大、社会貢献
   (肉化と利他の実践)
Incarnation of the Universal Law and Practices for Others

20-2.のの字の秘密   Index

 「の」の字は不思議です。左からよむと、6になり、右からよむと、9にも、なります。
 日本語の、「てにをは」のなかで、のの字ほど、不思議なはたらきを知りません。

 小さいとき、まだ数字をぜんぶおぼえていないころ、道をあるき、川をこえ、山のまがりくねった坂をのぼりながら、数をおぼえました。あの角が5、この大きな角が10、次からはめんどうくさくなって、10、20、30、40、とかぞえ、50で曲がりました。あとは、すぐに大きな数字で、まがります。100,200...1000,2000...10万,20万...のころは良かったのですが、9000万の次でまよいました。次の単位は、おそわっていなかったのです。わたしは、「1万の万」という意味で、「1万万」という単位をつくり、そうなればもうこっちのものです。2万万、3万万...9000万万の次は、1万万万です。もちろん「の」の字がかくされています。

 こうして、なにかとてつもない大きな数をあらわしたいときは、「万万万万万万...」と数えつづけていたのは、知らぬなりに、無限の大きな数も、「の」の字であらわすことができると、考えたのでしょうか?(--この話は、長くなりそうなのですが、はしょりましょう。)

 人間のこきょうは、海であることは、知っていますね?原始の地球の、人間のいちばん祖先にたどりつくのにも、のの字がかつやくします。
ぼくの、お父さん、お母さんの、そのまたお父さん、お母さん--ほにゅうるいの先祖を、一気にとびこえて、海へはいれば、アメーバまでは一直線。原始たんぱく質の、どこに、人間まで生みだしてしまう、エネルギーがあったのでしょうか?

 じつは変なんです。「地湧のぼさつ」を英語に訳すとき、のの字は、 of をつかうと、「地球のぼさつ」となってしまいます。「湧」わきでる、という意味をつたえるのに、 from をつかうと、人間の、海からの進化も、あらわせるのではとも思い、SGI-USAに、手紙をかきました。もちろん、外国人(わたし)の感覚は、違っていたのでしょう-- The Bodhisattva of the Earth をつかって、この仏法用語のせつめいが、雑誌にのりました。わたしの、変な質問は、まったく関係ありません。

 あとから、かんがえると、 of には、同格--地球と、わたしたちが、同じであって、しかもそれを結びつける--のはたらきがあります。「地湧のぼさつ」では、 of が、 from を、兼ねているようなのです。

 話は、のの字の不思議を、いちばんさいしょに、おしえてくれた人に、移しましょう。
 むかしむかし、あるところ--といっても、日本ですが--に、とてもきちょうめんな、さむらいがいました。面食い(麺食い)で、恋も、とてもはげしかったのですが、僧侶のじょうしきにならい、いっしょう独身でした。
 小さいときから、読み書きそろばんにすぐれ、がくもんいっぱんに、たいへんなさいのうを、みとめられていました。

 あるとき、さむらいをすてて、ぼうさんになることになったのは、寺が、今の、大学でもあったから?さいのうを、本当にみとめてくれたから?

 人柄もとても良く、みなに好かれたその人は、おしえるたちばに立ったとき、本当に、真価をはっきしました。その学問は、正確であるばかりでなく、性格をはんえいしたのか、きちょうめんで、しかも、感動的ですらありました。そのひとの生活そのものを、村人までが愛し、上を下への、だい歓迎だったと伝えられます。

 そのころ、布教もせいげんされ、寺が、権力とむすびついて、戸籍をかんりするなど、日本人のしゅうきょうかんを、後までけっていづける、こんなんな時代でした。「あやまった読み方」に、真実が、失われる危機にあって、その人の学問は、てっていして、法の真意をまもることにありました。

 題名にこだわり、ぶんしょうの構成にこだわり、伝統的とはいえ、今日の仏教学からは、時代のさんぶつ?と思われるところも、あるかもしれません。しかし、真意は、未来までの、法の真意にありました。ときには和歌をとりいれ、比喩をくしし、当時の庶民ににわかりやすく、奥義をといたかいしゃくは、ちみつで、一字、一点も、ゆるがせにしないものでした。

 らじゅうさんぞうにならって、みずからのりんじゅうの姿を予言し、そのとうり、そばをたべて、ゆかいに笑いながら、なくなりました。予言がしんじつならば、その人のことばは、うたがえません。

 あるとき、もっとも大切なことを、かんけつに伝えるために、れいによって、題名にこだわりましたが、正しい読み方すらなく、いくつも、異説がありました。「にょらいのめつご、ごのごひゃくさいにはじむ、かんじんのほんぞんしょう」。宗教の使命は、救済です。その人が、こう読まなければいけないと、必然性にこだわったのは、一字も、おろそかにしては、法の真実は、普遍でなくなるからでしょう。とくに、観心の本尊の、「の」の字は、わたしの形見であるとすら、言い残しました。これが、今につたわる、「の」の字の秘密です。

之の字、ノの字、のの字--なにを、形見とまで、強調したかったのでしょうか? きちょうめんな、なつかしいあの人が--

単に「ノ」の一点であれば、経相の本尊に対して観心だとか。分かったものではありません。だいごうの読み方のいせつを訂正するだけなのに、形見とは大げさな。観心「之」本尊と書かれてありますが、ご本尊の中では、「奉書写之」とあり、之は大御本尊そのものを指します。

わたしには、まなぶことのきびしさを、教えてくれます。すべてにきちょうめんだったせんぱい、ありがとうございます。あなたはきっと、一を聞いて十知る人だったのでしょう。どんな小さなことの中にも、何か真理があるはずだと、囲碁や石遊びにもむちゅうの子供時代だったでのしょう。今のわたしには、英語のアポストロフィー(')や、がくふのスタッカート(・)のもつだいじな意味にも感じられます。

ですからこの「の」の字は、わたしにはさしずめ、 音楽のsf (スフォルツァンド) であり続けているのです。時には二重ラセンにもベンゼン環にもなり、曲玉になって夢にあらわれるのです。英語のせんせいは、りょうゆびでジェスチャーして、クォーテーションマークをつくり、だいじなことをきょうちょうしますね。英語のパンクチュエーション以上のきびしさです。助詞は、日本語を特徴づけています。

このかた、よくこういう事を言われるのです。かいもくしょうでも、原典にはない「秘し」沈めたりとよむとか。それを文に三段を分かち、義に十段分かちてこうぎされるのです。じつににきびしいがくもんのしせい!もっとも理解こんなんな漢文のほんぞんしょうのこうぎで、原典にはない「ノ」の字をかたみと思えというわけですよ。意味を考えないわけにはいかなくなくなるでしょう?

かんたんには分からないで下さいまし。わたしこの「の」の字を、なんねんらい考えつづけているのです。

(これは、江戸時代の小説の書き出しなど想定している。「信仰こそ本尊」ともとれる内容としたのは、故なきことではない。信仰を主題にした小論であるので、信仰を強調する。生命論を基とした本尊論は、また別のものである。本尊抄は、読むもの、語るもの、論ずる者こそ傲慢です。信仰も、するものであっても、論ずるものでしょうか?「信仰論」は日蓮仏法では、現れません。姿勢の傲慢さが、論をゆがめます。)

20-3.法体論的解釈の今日までの必然性   Index
Necessity of Interpretation Based on Contents of Law up until Now

20-4.「内在的普遍」たる衆生本有の妙理   Index
Immanent Universality of Buddha Nature


20-5.秘妙方便と言語化、法華経   Index
Secret Expedient Means and Verbalization, Lotus Sutra

20-6.受持即観心, 己心の本尊   Index
Jujisokukanjin, and Gohonzon Inside of Our Flesh

20-7.寿量品の本質的な問い   Index
Essential Question in Lifespan Chapter of Lotus Sutra
三妙合論と、文底本因初住の下種


20-8.文字ご本尊実体論   Index
Chinese Character Gohonzon has Real Entity and Function

この項は、19-3.「凡夫本仏と久遠本仏」とともに、もっと早く書かねばと焦ってきた。東洋哲学研究所研究員、松戸行雄氏の「ご本尊象徴論」なるものは、タイトルだけは見たが、詳しく読んではいない。久遠本仏と対立した凡夫本仏は論じられない。同様に、ご本尊実体論と対立して、象徴論は論じられない。

我々会員は、「自分の命より大切なご本尊」と、常々教えられてきた。故細江柳三(父)は、我が家の火事に際し、ほかのものはすべて失ったが、ご本尊だけは、持ち出して守った。私は心から、「お父さん、お手柄だったね。」と言ったものだ。これは、ご本尊に実体があると信じていることからきている。

私はたまに、外へ向かって勤行するので、母がいぶかしがる。深い意味はないのだが、外の世界は、全くご本尊そのものだ。詳しく言う前に、数学の問題を一つ。太陽を中心として地球の軌道を円とするとき、赤道直下の、地球の自転速度、公転速度を求めよ。それによって、地表の、太陽に対する相対速度を求めよ。地球の外周を40,000km、太陽からの距離を150,000,000kmとする。






昼十二時 地表の速度=公転速度-自転速度
夜十二時 地表の速度=公転速度+自転速度
なお、北緯約40度の日本では、Sin40°に関連した(コリオリの力とも呼ばれる)回転運動が加わるので、もう少し複雑な運動となる。極地では、地球の自転運動は、地表の回旋運動としてのみ現れる。

閑話休題。東向きに、あぜ道の続きを降りていくと、小川にたどり着く。そこで初座を始めると、東天は、はるか山の上である。太陽は東から昇ると言われるけれど、実際は、地球が東方向へ自転している。周囲40,000kmが24時間で一周するから、その速度は、約1,667km/時=463m/秒。音速以上で自転している。想像するまでもなく、すごい速度だ。これに公転速度を加えると、夜十二時の赤道直下の速度となる。太陽まで150,000,000km、公転直径は、300,000,000km(外周は*3.14) これを、365*24で割ると公転速度。107,534km/時=29,871m/秒の公転速度(音速の90倍)!これはものすごい。また銀河系自体の、回転を含めた速度もこれに加わるだろう。

光速度不変が実測されたとき、ニュートン古典力学・物理学は否定されざるを得なかった。絶対空間、エーテルは存在しないから。アインシュタインにとって、相対性理論は、当然の帰結だったことだろう。彼は、一本の補助線で、ピタゴラスの定理が証明できたのだ、中学時代に。証明は、いく通りもあり得る。

太陽を表すものが、ご本尊に三種書かれている。大日天王は、太陽の持つ働きの本体部分。そのほかに、天照大神なる日本の神も書かれている。北緯40度付近の日本では、太陽光の降り注ぎ方も、他の土地とは異なる。岐阜県は、日照時間が日本一長いとか。三番目に、「日蓮」の名の中に、太陽の仏法を暗示しておられる。

次に、本尊相伝の五形(地水火風空)について、もう少し考えてみる。大地は上行、川の水の流れは浄行、無辺行、安立行は、風と火とか。(四元素説、首題の空大を入れて、五元素説。)ご本尊ご図顕は、全く大胆な大聖人の曼陀羅であられる。空には飛ぶ鳥の道があるけれど、人には見えない。同様に、宇宙を貫く普遍の法があるけれど、全く目には見えない。表意文字を使ったからこそ、深い意義を留められたもの。文字ご本尊には、従って実体がある。焼いてはならない。

八幡大菩薩については、農業と仏教の章で少し考察した。文字の一部である、「米」について、農村部会で指導があった。「米」を分解すると、八十八となる。八十八回も田へ通って手入れするからこそ、おいしい米がとれる。これは、勤行の持続の大切さを示している。ウソとおっしゃるなら、八十八日実践してみたまえ。

最後に、首題にも、普遍性、国際性がある。梵語のSa・darma・pundarikya・sutramを漢訳して、妙法蓮華経とした。南無妙法蓮華経は、妙法蓮華経(法華経)に南無をつけたものではない。詳しくは略す。南無は梵語。妙法蓮華経は漢語。それを発音するときは、日本語で読んでいる。鎌倉時代でこの三国は、世界中を意味している。世界の果ての国、極東の野蛮人の国で花開いた仏法だからこそ、世界中の人を救えるのではないだろうか。モーゼも、ジーザス・クライストも、マホメッドも、ご本尊に含まれる。日達上人亡き後、書写できる方はおられない。

21章.ご本尊図現に感ずる革命性--改めて種脱相対を問う   Index
Revolution We Feel in Inscribing Gohonzon

22章.信仰即生活   Index
Faith is Equal to Daily Life

22-2.私の信仰体験   Index
My Experiences of Faith

22-3.リハビリテーション(医学)と、私の使命 -- 障害の医学から、人間の機能学へ   Index
Physical Medicine and Rehabilitation, and my Mission -- From the Learning of Disability to *Functionics
思いつくままに、私の Functionics のアイデアを書き付ける。

* WHOの国際障害分類1980年から、2001年版機能、障害、健康の国際分類は、機能学の視点に立ってきたことは、喜ばしい。身体、精神、社会機能全般について、神経発達的にもとらえつつ、構築したい。
* 精神機能、中でも、自律・独立性の記述は、極めて重要なテーマである。特に日本人教育にとって、欠かせぬ。身体機能の独立性は、むろん理学療法の基本である。
* 「平和の機能学」 戦争の機能学、国際政治、国際経済学、芸術をも統合し、平和の文化の基礎づくりを開始する。これは、日々の行動とも連関する。薬を使わない生活の医学者・療法士Therapistこそ、真の Terran 地球人リーダーでなければならない。主要問題に方向付けられた平和主義 Main Problem Oriented Pacifism の中では、分析もちろんだが、働きかけとしてManagement が重要となろう。日々の行動も、哲学であるべき。ガンジーに深く学びたい。


22-4.農業と仏教(父の姿に学ぶ)   Index
Agriculture and Buddhism (Learning from My Father's Life)

ここに父の晩年の写真がある。屋敷畑に墓を移したその前に一輪車をおき、何か作業をしている。いつものように蹲踞(そんきょ)して休む姿は、まさに大地に根ざした農夫の趣である。日本文化の協働性や、自然との調和は、米作り農業と深く結びついていると言われるが、農業の視点から、仏教をとらえ直すことも、実に興味深い。尚、この小論では書き尽くせぬテーマであるので、おおざっぱな下書きにとどめ、父への感謝を表す。

大乗仏教を北伝仏教ともいい、険難のヒマラヤ山脈を越えて表意文字の中国に伝えられるのに何世紀もかかり、翻訳も数知れず生まれているのは、仏教徒の並々ならぬ熱意であった。また、羅什三蔵の師スリヤソマも「法華経は東北の国に縁あり」と、未来を予見した。伝搬の道がシルクロード(絹の道)といわれる。古来、古典は宗教も科学も技術も未分化であって、例えば鍼の古典も、「黄帝内経祖問霊枢...経」の字が当てられている。時間を超えるもの、timelessという言い方がよく古典の名を高からしめる。

仏教の発祥、発展、普及と、古代の農業社会とは、深く結びついていたであろう。否、どちらも平和的という意味で、思想・表現の中に、農業の影響が多く見られる。シルクロードは絹の交易と養蚕技術伝搬の道であったが、仏教の道、文化の道でもあった。天の下の虫とは、優雅な名前を付けたものだ。祖母達は、「おかいこ様」とあがめた。

「不殺」と、菜食Vegetarianismについても、稲作畑作農業が影響している。私も小作農の子孫であるので、どちらかというと野菜食い、粗食に甘んじるようになったのは、郷土、父母のおかげである。食生活の点からも、元々人類は、肉食ではなかったであろう。西欧が肉食を発達させたが、狩猟文化が、武器を発達させ、戦争上手にしたことは、想像に難くない。

日本文化はまた、基本的に農業であった。縄文の縄は、稲作の縄であろう。古来、手仕事、器用さを発達させた。採集や、漁業、そして狩猟が加わるが、歴史上農業が主流であった。田の灌漑の様子から、ライシャワー著では印象的に開始される。山を開墾し、田に灌漑し、段々畑まで作り、山菜まで食べる、これは乏しさの文化である。文明の果てに住み、山村へは、都会から敗者が流れ着く。平家の落人部落とも言われる私の故郷は、敗者の都でもある。勝者の文化である、アメリカとは、正反対。下呂の町には、未だマクドナルドは進出していない。

養蚕技術の歴史と、仏教の関係については、おそらく父(養蚕教師)の研究テーマであったろうが、私が代わってしなければならない。

日蓮仏法が、農業と深く関係あるのは、背景を考えても明らか。だから、インドの個人主義とは、少し表現が変質してきている。協働や、同志愛が強調されるのは、農業日本の文化性でもあり、農夫への迫害に対して、大御本尊を与えられていることも、象徴的。ただし「個人主義」、自律・独立性については、民主化にも教育にも重要である。「平均以下にならざるを得ないコンセンサス」ばかりを強調してはならない。

天照大神、八幡大菩薩など、日本の神々を仏教へ取り入れた。農業の神としてとらえたのであろう。仏教は他思想と対立しないで、吸収するに柔軟である。インドの神、中国思想の家族的価値を基とした倫理も統合した。天照大神を、太陽光の地球にもたらす働きととらえ、八幡は、「幡」の字に象徴されるように、帛(きぬ)、米、田で成り立っている。大地、地球の持つ働き、恩恵を感謝を込めて大菩薩と呼んだ。ミレーの「晩鐘」などの持つ宗教性と、共通している。日本人の自然観は、園芸に、季節感にも現れ、文学にも影響している。俳句が象徴的。

幡の「ノ」の字は、また出てきたが、不思議な一画である。一字一点も、おろそかにしてはならない日寛上人の遺言である(既述)。ここでは人を表しているのであろう。人が働いて、帛も編みあがる。支え合ってはいないから、個人だ。農作業は、一人でもできる。手仕事、手作りの大切さでもある。日本のものづくり技術の発達も、器用さの勝利でもある。ここは、「飛弾のたくみ匠」の里である。私の祖父は、板屋根大工だった。父も大変器用だったようだ。老いても、ある夜、逃げるネズミを棒一本で捕らえたすばしこさには、驚嘆した。宮本武蔵並!?

「下種仏法」の名付け方も、農業的。米作りでは、下種は苗代になされる。手で植えた後、人の足音を聞いて育つと言われるように、頻繁に手をかける。おいしいお米はこうして作られるが、私には、頭が上がらない話である。貧乏小作農には、田がなく、田植えの経験すらほとんどない。畑も、ブラジルへの農業移民の方から屋敷を購入して、そのときに増えた。下種仏法は、人づくりともとれ、教育的観点からも再研究できるし、せねばならない。比喩的な植物の特性や、教育観も、御書にはふんだんに取り入れられている。

* 実るほど 頭を垂れる 稲穂かな
* 「ツギの木の弓」を、しつけに使われた故事。鞭も必要とは、勇気がなければいえない時代である。

来るべき私の「農業と仏教」は、農業と、教育の視点から、仏教史、御書を再読するものとなる。

23章.音階の成り立ちと音楽について   Index
Analysis of Scale and Music

この項は、銀嶺合唱団、特に別宮貞夫氏著「音楽の不思議」を教えてくれた友人に感謝しつつ、また、リハビリテーション合唱団の若き日のVoice Training 仲間に感謝しつつ、書きつづる。主には、著書の要約や、私なりの解釈であるが、同書は手元にないので、歴史的に、間違った記述もあるかもしれない。音楽を不思議と感じられる方は、是非ご一読を。

なぜドレミの音階は、七音なの?あるいは、五音なの?音楽理論優秀な西洋と異なり、日本では考えないし教えられない音楽教師も多い。あるいは、独善的な創価学会では、「妙法の五字七字さ」とこじつけてすましてしまう。科学精神や、論理的思考が育たぬのは、指導者に責任が大きい。不思議この上ないことであったので、前記著書は、勉強ぎらいの私にも、唯一の愛読書であった。焼失したが、同じ書を後輩にも贈呈した。

音階の成り立ちは、単純な数学である。古代に、すでにこれに気づいていたピタゴラス学派には、改めて敬意を払う。従って、この分析は、ピタゴラス音階、旋律音階と呼ばれる。ドミソなど、和音を使うと、旋律音階ではきちんとハモらないので、ツァルリーノ音階、和声音階(純正調)が生まれ、バッハのころに、鍵盤楽器が発明され、平均律に妥協することによって、容易に転調ができるようになった。平均律クラビーア曲集は、記念碑的な作品。

現在は、平均律がほとんど用いられるので、聴衆の感覚も、それに倣っている。いわゆるチューニング法であるが、厳密な議論になることはご承知願いたい。Temperament などの語が音楽辞書にはたくさんあるが、日本語化は、非常に難しい。音楽行為を、論理的に考える伝統のなさのためと、私は感じる。音楽美とも関係するが、その方が心地よいから、音階も、作曲法も演奏スタイルも発達してきた。Temperamentの用語は、その本質をついたものだ。その方が自然で心地よいから発達した。議論を難しくしているのではないのに、日本語で説明しようとすると、Temperamentも語源からということになる。ラテン語系を使う人にとっては、単純な話のはずだ。私たちが漢字の用語を分析するに似たものだろう。

* 旋律音階

* 和声音階(純正調)

* 平均律
Equal Temperament

23-2.音楽と信仰 「声仏事をなすこれを名付けて経となす」   Index
Music and Faith

24章.信仰と生命論の融合   Index
Synthesis between Faith and Philosophy of Life


25章.科学と宗教の冥合の時代   Index
An Age of Integration between Science and Religion

「科学と宗教」は、私の入会動機でもあり、極めて大きなテーマである。私の哲学精神は、どちらかというと、信ずるよりも疑うことに重きを置いているので、2-2に示すような、孤独に疑う心や、考え書くことを重視する。疑えない何ものかを、自分の核としたいから。疑いようもないことだけを、書き付けたいから。

この表題は、むろん文明の課題でもある。物質の科学・技術のみ突出した時代には、精神科学の発達も促される。宗教の持つ精神性は、精神科学と融合して、力を持ちうる。精神科学も物質的な技術に頼りがちの時代、医学分野でも、化学医学が突出している。物理医学は遅れて発達し、リハビリテ-ション思想と結びついて、Physical Medicine "and" Rehabilitation 学会となった。今後、精神的リハビリテーションや、精神的教育も伴って、発達が望まれる。

時代といっても、個人の中にある。「哲学する」、「科学する」と日本語は動詞を持つが、重要な点である。要は、私たちが、毎日哲学できるか?科学できるか?これが人類の発展につながるからである。問題意識を刺激するものは何であれ、個人の内なる精神闘争が、重要だ。哲学や、宗教の核がある人は、「科学する」仕方も代わってくる。倫理の基盤になるからだ。

また、統合作用としての哲学、宗教の果たす役割も、重要だ。科学精神は、ともすると分析的にすぎ、統合作用を忘れがち。


26章.聖なる狂信と世界市民教育、文明論的視座   Index
Sacred Fanaticism, Education for Global Citizenship, and View of Civilizations

26-2.等質的日本は、どこから来ているのか?   Index
Where is Homogeneous Japan from?


26-3.権威と信仰 -- 官僚主義をいかに昇華するか?   Index
女性の指導性
Authoritarian and Faith -- How to Conquer Bureaucracy?
Women's Leadership

27章.食事姿勢と家族団らんの重要性   Index
Importance of Posture of Feeding and Communication and Humor While Eating with Family

27-2.恋愛、結婚、離婚、同性愛、一夫一婦制 Written in 1995   Index
Love of Man and Woman, Marriage, Divorce, Gay, and Monogamy

このような論考は、個人差がつき物である。しかし、私には、私の主体性がある。

 1990年、恩師の慈愛に包まれて、初めて訪れた外国が、アメリカであった。受験時代に、むさぼるように読んだSFが、決して遠くにはなかった反面、病んだ国である印象も、現実であった。

座談会交流で知り合った、会員と文通を続け、1994年12月- 1995年1月、英語勉強を兼ねて、渡米した。彼はゲイであった。AIDSにも悩む彼は、しかし、直前に、アンチエイズL.A.で、働き始めていた。願兼於業を、地で行っていると感じた。多い離婚、片親の児。彼らを思い出しながら、これは書かねばならない。

 日本人の常識では、幸福な恋愛、結婚と信仰は、関係があると言うだろう。一夫一婦制社会の通例では、全くおめでたい、功徳なのだろう。しかし、それが、信仰を捨てて、経済的に裕福な境涯になる事であったり、男子部では活動家が、壮年部では保守的で、婦人部にかなわなくなっていく現実--少し違うのではないの?

 アメリカの彼の場合は、決して、信仰を利用して、幸福な結婚生活を得ようとは思っていない。病んだ国らしく、ゲイで生き通して、文明病とも言えるAIDSに取り組む仕事を得た事を、彼は誇りとしているに違いない。長生きできないかも知れないが--事実、四年間で、彼は驚くほど変わって見えた。

 信仰は、人間性の発露である。この観点でのみ、以下の論考は意味があると、考えていただきたい。

 信仰や組織や恩師を、いわば利用して、安易に恋愛に走る事に反対であるし、又、そう行動してきた事が、遅い春を迎える事になっても悔いはない。

 大学での、一番の反面教師が、同棲であった。男女が交際するサークルでは、ほとんど、この前例があった。私の所属したサークルは、遅くできたし、私が最年長であった。私の目の黒い間は、同棲を出すまい。これが私の決心であった。前後して二人を、好きになったが、実らぬ片思いを通したのも例のごとし。

 思春期ならともかく、恋愛が性欲と結びつくのは、自然であると思う。武者小路実篤が言うごとく、恋愛は、最高の子供を得るためにするものなのかも知れない。しかし、それだけでは、子供を得られぬ人は、どうするのだろう?

 むやみやたらに、性欲と結び付けず、自己抑制が働くのは、プラトニックと言う言葉があるほど、精神的な愛情を大切にするからだろう。

 恩師が言われるように、牛のようによだれをたらしてするものではなくして、一生に一度、命がけでするものであるならば、恋愛は、性欲とも、結婚とも、子孫とも必然的に結びつく。恋愛は、ある意味では、熱病かも知れないが、縁あって結婚しましたと言うように、単純には考えたくないのが私の心情。因縁和合して果報生ずる道理であるので、自分の中で待ち望んできた宿縁、いわば遠因にもとづきたい。

 やはり、人間の常として、一夫一婦制が理想であるならば、私も純潔を守ろうと思った。時代錯誤と笑われるのは、承知。

"I am sexually a little Puritanical as the Daishonin was."
と言ったら、彼は、"May be you are mono-sexual." と、愉快そうに笑った。しかし、私は私のやり方で、これからもやっていくだろう。

 なぜ、離婚が多いのだろう? なぜ、愛情で結びついていても、さめた夫婦が多いのだろう。モラルの低下は、過剰な自由と無関係ではないと言うのが、私の主張だ。自由は、外からではなく、内からの、自己による規制を必要とするし、放逸とは全く違うものである。

 それを、外から執拗に縛り付けようとするのではなくして、なぜ、どのような自己規制が必要かを、自ら示すやり方で次世代に提示できなかった大人達。 性教育も、愛情や、異性への思いやりを欠けば、How to ものに堕する恐れさえある。 むしろ、社会全体の、モラルの低下を、環境の劣悪化と言うより、自分達の事として、問題視しなければ、解決の手がかりすらないだろう。

 私のような者にとって、貞淑である事は、自然に出てくる心情であると思われるし、二人の、愛情の発露として当然と思える。性が、いとも簡単に商品となりうる時代では、強固な自己規制が、自然の内になされるようでなくては、幸福な結婚生活は望めないかも知れない。少なくとも、偽りの愛を、等質社会にゆだねる、生き方かも知れない。

 友人の結婚を、うらやましいと見る時代に終わりを告げ、遅かった春を、謳歌しようとすらしないでいるのは、何かが私の中で変わったからだ(やせがまん)。公務員での、職場の上司との摩擦、重なったストレスに打ち勝って、行ったアメリカ。英語の本格的な勉強にも加えて、島国根性を、世界市民性へのステップとするには、高すぎるハードルだっただろうか? 自分に自信がついた時、見えてくるものがある。

 ゲイの彼には、彼の Identity がある。

 離婚する権利を、合法化して、喜ぶヨーロッパ人、悲しむ人--

 一夫一婦制にこだわる、私のような未経験者。

 いずれも、自分の幸福は、自分でつかめる社会を作るのが、真の信仰の、目的である。本質的には、制度の問題ではなく、個人の結婚観の問題であろう。私は、まだ踏み出してもいない。

27-3. 教育環境としての家族、共同体価値の崩壊   Index

Destruction of Family & Community Values as an Environment of Education


27-4. 食事姿勢、一家団欒がいかに重要か ? -- 発達の視点から   Index
Importance of Feeding Posture, and Ikka-danran -- From the View of Development

27-5.人間発達と、母の智慧   Index
Human Development and Mother's Wisdom

ここで説く教育観は、日本人には全く驚天動地であろう。革命的教育観は、22世紀にも、ますます重要となる。
赤ちゃんが、母の教育力を発達させる。自分がしつけ躾ていると思いこんでいることが、母の傲慢である。時代は、逆転の発想を要求している。これが本当に理解されれば、未来は明るいのだが…

人間の発達は、赤ちゃん自身が持っているものが、解き放たれる過程であると書いた。屈曲内転に丸まって折り重ねられた姿勢から、持っていた能力がまさに解き放たれて、両手を上げて歩くまでが象徴している。その後も、3才ころの多動に至り、母との絆は解放され続ける。トムソーヤーなどの小説が語っているように、危ないと制止しても冒険を求めるのが子供であり、又大人である。自分たちの死(葬式)すら、おもしろく見守っていたに違いない。

子供は、高い所が好きである。なぜ? オオカミ少女が歩けなかったように、もし母が寝てばかりいれば、子供は歩かなくなる。母の背中を見て、子供は発達する。頭を直立にし、直立歩行に至るのは、母のまねをするばかりではない。重力の引っ張りに対して、反発する働きは、運動発達が主たる時期には、成人以上に強力で、身体ばかりか、心理機能にまで影響している。赤ちゃんが、常に練習しているらしく観察されるから、明らかである。重力への反発は、すなわち、上へ上へと向かう。飛行機が発達されて、たやすく移動できるのに、自分も乗りたいと思うのは、当然である。塀があれば上りたくもなる。ディズニーランドの興奮は、重力をむしろ楽しむことに利用している。

「独立を楽しむこと」こそ発達を貫く哲学である。母も独立学習を助け、子供も干渉を嫌う。残念ながら、日本人の教育観は、親の独占欲、依存性に満ちていて、独立を強調しない。子供を子供として扱い、親の意に任させようとする。社会全体が過保護となり、少子化の影響で、ますます「手につながれた子供」が目立つ。日本の甘えの精神構造はかくして、ますますひどくなる。

西欧の個人主義は、徹底して独立人格を育み、Identityを引き出す。自分がなりたいように発達させ、それに責任を持たせる。子供自身が何をしたいかを、大切に扱う。要するに、子供自身が、親を子離れさせていく方式である。大学へ行く時期には経済的にも独立し、単身の家庭を築く。

老年になってある時期からますます依存的となり、健康保険も使い放題、社会の重荷となっても平気、むしろ、してもらって当然という高齢者は、全く子離れもできてはいない。嫁が家事をとって代わり、水仕事をしなくなる祖母は、急速にぼけ、退職して無趣味な祖父も、責任を失う。痴呆問題も、文化的背景を感じさせる。

親が、親としての独立を考えられなかったことが、子供達の教育問題となる。社会的責任や、協働の価値をたやすく捨てた人の子は、いじめたり、いじめられたりする。先生が、女生徒を買い、性の対象としか見られぬのに、教育という言葉すら成り立たぬのは、不思議ではない。大人の、脆弱な独立人格が、子供にも反映している。

父母の貞淑性が、もし保てるものならば、それだけで偉大な教師となる。なぜなら、性教育や、性倫理こそ、本能的であるだけ、本質的だからである。自分のモラル低下を棚において、子供の教育は語れない。家庭こそ、教育の場だからである。姿で示すという意味において…

母の愛情は、無償のものになる。愛してやまないが、情緒的で、崩れも早い。父親の権威も、家庭を、休むだけにしか利用できない仕事人間では、「怖さ」を失う。いざというときにしか、本気では怒らなかった昔と違い、常に大したことのないことに不平を言っている姿が、子供には目立つものとなる。

母は、太陽のような明るさと同時に、厳しさをもっている。その特質は、子供達が作り上げたものである。試練を経て磨かれたものであるとしても、子供が自らの姿で、教育した親である。障害児の家庭が、例外なく強くまとまり、特に母が強いのは、故なきことではない。離婚したとしても、母は子供を捨てはしないし、できない。父が障害児教育や世話に携われば逆にもなるが、多くは、そうではなく、離婚すれば捨てる。

子供や次の世代が、無意識のうちに、強い親を教育していく。このことに気づき、これに感謝できる親こそ、すばらしい家庭を築き、社会貢献も果たせる。こうした逆転の発想こそ、新千年紀の鍵となるであろう。障害をバネしうる家庭こそ、新千年紀の主体者と言うこともできる。

27-6.父性と父の背中、智慧、予言   Index
Paternity, Father's Back, Wisdom, Predictions
27-7.恩と人権   Index
Obligation and Human Rights

27-8.家族、共同体、地球家族   Index
Family, Community, Earth Family

28章.世界平和と真実の仏法、真実の宗教の連帯   Index
World Peace and True Buddhism, Coalition of True Religions

28-2.平和教育への課題   Index
Tasks for Peace Education

* 弱さ(繊細さ)と平和
Weakness and delicacy
* 手作り、器用さと平和

* 人の原始的機能と、平和

* 第一次産業と平和
農業
酪農
林業
水産業
狩猟

* 武器と平和
   信仰者は、特に性的武器にご注意、陰謀渦巻く日本なれば。Take care of yourself against sexual weapons as a religionist,  because of Japan where every leaders may make conspiracy.

* 第二次産業と環境平和
環境問題が、始めて問題となったのは、明らかに産業革命後のイギリスである。直立歩行が、自らの最小のエネルギーでの移動を可能にしたように、技術革新は、移動手段に関するものが最初であった。車両、船舶、航空。効率を求めるほど、エネルギーを消化し、公害をまき散らす。この、「楽に移動したい」という欲求を、実現できる時、工場そのものも又、自然を汚す元となる。
技術革新が、環境負荷を減らしうるものならば、意図的に、開発すべき課題は決められる。最も大きな質量の、移動に関するものが大きいのであれば、代替手段や、移動を抑制する方向への技術革新も重要。地方の時代である。
エネルギー問題も、エネルギーを使わない方向への、技術や教育に向けられても良い。知識が、インターネットですべて結び合わされる時代には、場所の移動は無意味になる。世界のどこにいても、自分の努力次第では、プライムムーバーたりうる。
環境問題と前後して、情報革命が起こったことは、明るい未来を予測さえさせる。善意が結びあえられれば、解決は早いからだ。

* 自然環境と平和
自然環境の破壊は、もっとも大きな戦争、生態系戦争である。

* 社会環境と平和
社会環境は、都市化によって深刻に破壊された。田舎すら都会化され、明るすぎる空は、星空からの精神教育を、奪って久しい。そのリハビリテーションは、地球倫理に基づいてなされ、組織的になされるならば、「教育的社会」にも変革しうる。しかし、失敗すれば、エゴイズムや、イドイズムを刺激するばかりの社会から、脱皮はできない。

* 「葉隠れ」と平和

* 「五輪の書」と平和

* 貧乏と平和

* 女性と平和
女性の文化は、繰り返すが、弱さ・繊細さの文化である。強くはないが故に、平和的なのである。

* 子守歌、音楽文化と平和
安らかな眠り。これこそ、音楽の目指す、第一のものであった。
「ねんねこしゃっしゃりまーせー、ねたー子のかーわーいさ」
「ねんねんころーりよ、おこーろりーよ、ぼうやはよいー子―だ、ねんねーしーな」
母から聞く、最初の音楽は、子守歌であった。なぜ、眠りにくかったのだろう? なぜ、いらだったのだろう?なぜ、母は、その時、ちゃんと子守歌を歌えたのだろう? 私の母も、子供を寝かしつけるときは、作詞・作曲家となった。その光景や、歌は、しっかり記憶されている。REM睡眠が大脳を成熟させる最も大切なものなので、母はあやし、話しかけ、歌を歌う。赤ちゃんが母を歌手に育てる。
「たまきはお利口かな? おたたん子かな?おりおりおたおた、おたたん子ー」と歌うと、私は怒ったと聞く。
「おりおり、おたおた、おりりん子ー」と歌われると喜んで、安心して、眠ったらしい。母の智慧は偉大である。いらだつ刺激はいくらでもある社会の中で、子を落ち着かそうと必死で、自作の曲を聴かす。
クラシックはよく、眠りを誘うらしい。学生のころは、特によい音楽は、睡眠薬であるようだ。だから、ハイドンが、「びっくり」交響曲を作曲するに当たって、茶目っ気をだした意図は、うなづける。「わたしの美しい交響曲で、眠るとは何事!」眠らすまいとしての、第2楽章変奏の見事さ。しかし、のんきな聴衆は、その後で、また眠ったに違いない。
音楽のもたらす、心の平安。音楽の性質そのものが、情緒に訴えるものなので、なおさら際だっている。音楽文化の平和性が、いつまでも、いつまでも続いていくであろうことを、願い、期待する。私の曲も、これに続きたい。
メロディーの美しさは、音階的に行きつ戻りつするもの、和声をたどるもの、特殊な音階に秘められた跳躍など、様々である。日本の、陽旋法、陰旋法は、貴族文化的か、格調高く平和的。明治以後も、日本人は美しいメロディーメーカーであった。古来の、五音音階も関係している。
時代が暗かった戦後特に、希望あふれるメロディー・歌詞が目立ち、視聴者も熱烈に愛唱したのは、極めて象徴的な事実である。音楽文化は、暗い時代ほど偉大である。歌う人間、作曲する人間もまた、時代の産物でありながら、むしろありありと、時代への抵抗を歌えるのである。楽聖ベートーベンが生きた時代が、フランス革命や、市民革命、「独立、自由」が始めて取り上げられた時代であることは、偶然ではない。古典派の調和を保ちつつ、個人の叙情のロマンへの架け橋となった。

* 日本等質社会とファシズムの軍靴。独学、がんこ気質を守れ!

文化戦の戦況は、個人主義者にはなはだ不利だ。人は歴史を生きているから、文化の堕落に、個人主義者も気づかず同化していく。

例えば情報化。きちんと使いながら、ハード、ソフト両面での工夫が必要。英語化だから横書き情報が使いよいとは、言い切れぬ。

ファシストが、イドイズムを利用し始めている。衆愚化に、本能が加われば、太刀打ちできない。拝金の文化侵略は、日本化とも呼ばれる。等質社会は全体主義そのもの。この傾向はもはや変えようもなく、個人主義者は、敗戦を迎える。

自身の内なる、独学の人を守れ。がんこ気質を守り抜け!私たちは、個人主義という、平和の使徒だ。戦いはまだまだ長い。生涯をかけて、生涯を超えて、戦い続ける。魂の独立を果たし、民族の良き伝統と、誇りとりもどすまで。


28-3.青年を主体とした平和運動、社会貢献の今後   Index
Future of Peace Movement and Social Contribution Mainly by Youth

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